置いてもらって実際に売れれば、それはお店の利益に貢献することになる。「芝居」を悪事と決めつけるのは、思慮が浅いってものだ。ビジネスの「善」と「悪」は、表面だけでは判断できないのではないだろうか。

 実際、こんなこともあった。いつもどおり、僕がトイレに行って、郡司さんがお店に入ろうとすると、店内にいた”本物の”が、僕が置いていった雑誌を手に取った。そして、食い入るような目で誌面を読み込むと、サッとレジに向かったのだ。トイレに行っていた僕は、その現場を目にすることができなかったが、郡司さんは、そのお客さんの後ろ姿に最敬礼したと言っていた。

機動性こそ、ゲリラ「最強の武器」である

 こんな調子で、とにかく店頭に置いてもらうために、ありとあらゆることをやった。

 営業活動の最前線で奔走してくれたのは郡司さんだったが、僕も、取材・執筆の仕事をしながら、営業活動にも余念がなかった。大阪出張のときに、ついでに書店営業をしようと思って、唐草模様の風呂敷に大量の雑誌を包んで背負っていたら、重さに耐えかねて、新大阪駅の階段で腰を抜かしたこともある。涙が出るほど痛かった。苦労と言えば苦労だが、そんなことも今となっては楽しかった思い出である。

 こうして、僕たちは、書店やマイコン・ショップなどを一軒ずつ訪ねては、店頭に雑誌を置いてもらっていった。そして、置いたら売れた。僕たちの狙いどおりだった。マイコン・マニアはもちろん、マイコンを組み込んだ製品を考えているビジネスマンなどを中心に、雑誌は飛ぶように売れた。

 彼らのニーズに応える情報源が『月刊アスキー』しかなかったのだから、当然の結果だと思った。新たなニーズが生まれたときに、最速で市場に参入する。その機動性こそが、ゲリラ部隊「最強の武器」だ。僕たちは、その武器を最大限に活かしたのだ。

 創刊号の5000部も、第二号の5000部も完売。三号目からは8000部へと印刷部数を増やしたが、これも完売。創刊翌年の1978年3月号で、ついに念願だった1万部に到達した。

 大手取次との交渉も始まった。『月刊アスキー』の存在は、全国のマイコン・マニアに知れ渡っていたが、地元の書店に探しに行っても置いていない。そして、「雑誌を取り寄せてほしい」と頼まれた書店員が問い合わせるのは大手取次だ。そうなると、取次も「『月刊アスキー』ってなんだ?」となる。

 出せば完売する雑誌だったから、強気に出ることができた。卸値も高く設定できたし、雑誌なのに返品不可という好条件で、取次との交渉を終えることができたのだ。そして、1978年10月から大手取次が扱ってくれるようになり、発行部数も2万部に増加。メジャーな雑誌として書店の一角を占めるようになった。

ビル・ゲイツが認めた「伝説の起業家」が教える、若者がチャンスをつかむ「ゲリラ戦術」とは?西 和彦(にし・かずひこ)
株式会社アスキー創業者
東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクター
1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部中退。在学中の1977年にアスキー出版を設立。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、ボードメンバー兼技術担当副社長としてパソコン開発に活躍。しかし、半導体開発の是非などをめぐってビル・ゲイツ氏と対立、マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。1987年、アスキー社長に就任。当時、史上最年少でアスキーを上場させる。しかし、資金難などの問題に直面。CSK創業者大川功氏の知遇を得、CSK・セガの出資を仰ぐとともに、アスキーはCSKの関連会社となる。その後、アスキー社長を退任し、CSK・セガの会長・社長秘書役を務めた。2002年、大川氏死去後、すべてのCSK・セガの役職から退任する。その後、米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授や国連大学高等研究所副所長、尚美学園大学芸術情報学部教授等を務め、現在、須磨学園学園長、東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクターを務める。工学院大学大学院情報学専攻 博士(情報学)。Photo by Kazutoshi Sumitomo