最後の審判
では誰が赦されて、神と一緒に生きるのか。それを決めるのが、最後の審判である。
最後の審判は、裁判である。神が人間を裁く。一人ひとりを、個別に裁く。人間は自分に責任を持てばよいので、ほかの誰かの責任は負わない。人間は一人ひとり別々に造られたのだから。罪状は、神に背いた罪。それを赦すかどうかは、神が裁量で決める。有罪なら、永遠の炎で焼かれる。無罪なら、神と共に永遠に生きる。
裁判と聞くと、嫌だなと思う日本人が多い。そう思ってはいけない。一神教の考え方は、裁判はよいものだ、である。裁判は、正義を実現する。裁判は、弱者を守る。ユダヤ法にも、イスラム法にも、弱者を保護しなさい、と明文で書いてある。人びとは法律や裁判を、信頼する。
最後の審判は、よく考えると、人間を保護する仕組みだ。神は、主権をもっている。人間を、煮て喰おうと焼いて喰おうと勝手のはず。でも、いきなり人間を滅ぼしたりしない。必ず裁判を開くことになっている。裁判だから、証拠調べがあり、判決理由も必要になる。神は、その判決について、責任を持つのだ。
終末、そして最後の審判、と聞くと、それはいつのことなのか、そして、誰が救われるのか、気になる。まず、終末はいつやって来るのか。それは、人間にはわからない。真夜中の泥棒のように、まさか今日ではあるまい、と思う日にやって来る、とイエスは教えた。今晩かもしれない、ということだ。
終末がいつやって来るかは、神が知っていればよく、人間は知ることができない。いつ終末が来てもいいように、準備をしておくことが大事だ。
終末はどんな出来事か
終末になると、世界はどうなるか。終末について、具体的に書いてあるのは、新約聖書の最後の「ヨハネ黙示録」である。一世紀ごろ、パトモス島に、ヨハネという信徒がいた。あるときヨハネは幻をみる。天に上げられ、これから起こる終末の様子を、つぶさに目撃する。
そのとき、天体は地上に落ち、地震が起こり、海は荒れ、陸地は水没し、飢饉(ききん)と疫病が広がる。天使の軍勢が出撃する。ハルマゲドン(メギドの丘)で悪の軍勢を打ち破り、千年王国を樹立する。死者が復活し、最後の審判が行なわれる。あらゆる種類の災厄が襲うのが、終末だ。
そのあと、神の王国が空中から現れる。豪華なつくりで城壁のある都市だ。救われた者たちは、そこに入ることを許される。
以上は、キリスト教の場合。イスラム教の場合は、緑園の描写が具体的で魅力的だ。人びとはめいめい庭つきの豪華住宅を与えられ、召使たちにかしずかれる。
(本原稿は『死の講義』からの抜粋です)