あなたが存在する理由
2.世界は、創造主の意思である
「このわたし」の存在は、偶然でなく、なにものかの意思である。そのなにものかは、神である。その神が世界を創造した。
「創造」とは、意思によって存在をうみだすこと。創造によって世界が、そして「このわたし」が存在するようになった。それなら、自分が存在することには、理由がある。その理由を、考えてみることができる。とことん考えてみることができる。世界を偶然と考えていたのでは、こんな突き詰め方はできない。
神が「このわたし」を創造した。必然とされている部分も偶然とされている部分も、丸ごと創造した。なぜなら、神は、世界を丸ごと創造したからである。
かくある世界のすべてを神が創造した。世界には、神の意思が行き渡っている。創造は、神のわざである。創造されたのは、自然である。自然に、人間の手は加わっていない。
創造されたあとの世界に、人間は手を加えている。それを、人のわざという。文化である。人のわざは、神のわざに支えられ、神のわざと合わさって、実現する。要するに、すべての出来事は、神のわざか、神のわざがかたちを変えたものである。
神の意思が世界に行き渡っているのなら、世界の出来事のひとつひとつが、神の意思である。神からのメッセージである。メッセージなら、その意味はなにかと、あれこれ考えてみることになる。
3.創造主は、神でなくてもいい
神は、言葉で人間に語りかける。預言者はそれを書き留める。神はまた、世界のさまざまな出来事を通して、メッセージを伝える。そこで人間は、神を信じ、神に従った。神は人間を上回る、巨大な存在だった。
神が巨大な存在で、神に人間が従わなければならないのは、人間が人間に従わなくてもよいためだった。古代は、奴隷制の社会。人間が人間に従わなければならない悲惨が、目に余った。けれども、そうした批判は、一神教にも向けられる。もしも神が、人間のこしらえたものなら、これ以上の罪はない。神が存在すると言うが、人間の都合で、神が存在することにしているだけではないか。
このように、神の存在にハテナ?をつけると、世界はもとの偶然に逆戻りするのか。いや。神はいないかもしれないが、世界を存在させる意思は、確かにある。そう考えることもできる。クエーカーは、内なる光を重視する。人間が、世界を存在させる意思と触れ合う体験である。それは、神か創造主かよくわからない。そういう触れ合いができるなら、イエス・キリストは必ずしも必要なくなる。
ユニタリアンは、あえて神と言わず、至高のもの、偉大なもの、などと言う。人間を超えたもののことだ。至高のもの、偉大なもの。神ではないから、人間と契約を結ばない。人間に命令もしない。人間が自分をみつめるときに、じわじわ滲(にじ)み出てくるものだ。「人間を超えていて、世界を存在させる意思が、創造主である」。この創造主に敬意をもつのが、一神教フリースタイルである。
あなたもできる一神教
ここまで一神教をゆるくとらえるなら、誰でもすぐ一神教を始められる。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などに、とらわれなくてもよい。
やり方は簡単だ。まず、ここに「このわたし」がいるとはどういうことか、考える。小さくて弱くて、有限の存在であるなあ、とみつめる。
有限である。自分が生まれる前に、さかのぼれない。自分が死んだあとに、思い及ばない。自分が経験できるのは、世界のほんの一部である。なぜ自分が存在するのかと考えても、考え切ることができない。
そこでわかること。世界は大きい。「このわたし」は小さい。「このわたし」をここに存在させているのは、自分を超えた世界の拡がりだ。世界は大きくて、その果てまでは到底たどり切れない。逆に、その大きな世界が、わたしをこのように存在させている。
わたしをこの世界に存在させているはたらき。それを、偶然とよんでしまうと、この世界から意味が消え失せる。ならばそれを、創造主とよぼう。創造主が、世界とこのわたしを造った。その意思に応答するように、生きよう。応答し終わって、命を終えるのだ。
というふうに考えれば、誰でもあなたなりの流儀で、一神教フリースタイルの生き方ができる。もちろんこんなふうでなくても、仏教フリースタイルや、儒教フリースタイルや、日本教フリースタイルでもかまわない。そのことは、改めてのべることにしよう。
(本原稿は『死の講義』からの抜粋です)