点字を使うイメージから、触ればなんでもわかると思われがちである。しかし、仮に点字が読めたとしても、2枚のタオルを渡してその質感の違いを感じられるかといえば、そうとは限らない。点字には一定のパターンがあり、このパターンを認識することが点字を理解することである。しかしタオルの毛には、人間が「読む」対象となる分節やルールが存在しない。つまり、点字は「触る」ものではなく「読む」ものなのだ。見える人が、線や点がつくるパターンによって文字を認識するのと全く同じであるといえよう。点字は触覚、文字は視覚と、使う器官は異なるが、「読む」という同じ仕事を行っているのである。

◆目でなくとも読める。
◇耳で眺める

 買う気がないまま棚の上に置かれた商品を見るのは、「眺める」行為である。「眺める」ことを強いて定義すると、「特定の対象に焦点を定めずに、周囲に存在する自分の行動にすぐには関係のないさまざまなものについての情報を集めること」だ。もちろん、これは視覚以外の器官を用いても可能である。たとえば、私たちはカフェで後ろの席の会話をなんとなく耳に入れたりする。

 見えない人は耳のみで「眺める」ことを行い、カフェの状況を把握する。ベテランの視覚障害者はこの能力が特に高く、話をしながら周囲の様子を音で「眺めて」いるので、教えなくてもトイレの位置がわかることもあるようだ。視覚障害者は特に優れた聴覚を持っているわけではなく、見える人が目でやっていることを耳でやっているだけである。

 広瀬さんは、出口王仁三郎の詠んだ歌が自分の活動を支えてきたと語る。「耳で見て目できき鼻でものくうて口で嗅がねば神は判らず」。この「神」を「真理」と言いかえれば、誰にでも当てはまるのではないかという。目や耳などの器官は明確に分けて考えられないものなのだ。もちろん目にしかできないこともあるが、まずは想像力を働かせたい。器官から解放されれば、見える人と見えない人の間にある類似性を感じることができる。

◆コミュニケーションの考え方
◇武器としてのユーモア

 見えない人が社会に不自由さを感じたとき、とりうる方法はいくつかある。行政に異議申し立てをするなどの「市民運動」は最もストレートなやり方だ。