東日本大震災の大津波によって、児童・教職員84人という世界でも例のない犠牲者が出た石巻市立大川小学校。震災から1年半以上が経過したが、なぜこれほどの児童・教職員が犠牲にならなければならなかったのか、今もまだ真実は明らかになっていない。それどころか、遺族や保護者、地域住民、石巻市教育委員会の間では、震災で噴き出した問題がこじれたまま、解決の糸口さえ見出せない状態だ。多くの集落が消滅した大川地区の住民たちは、こうした事態を今、どのように感じているのだろうか。
本題に入る前に、新たな事実がわかったので、冒頭で紹介しておきたい。
前回の記事で、津波が来る直前、大川小学校の校庭から三角地帯に向かって走った子どもたちが「私道から右に折れ、書道教室(個人宅)と倉庫の間の通路から県道を目指した」と記した。しかし、生還した児童の1人が、市教委が現場検証した書道教室よりも「1軒手前の民家の間を曲がった」と新たに証言したのだ。
一軒手前の民家の間なら、所々に排水溝の蓋があり、すれ違うスペースが十分ある。見通しがきいた場所だから、低学年の子どもたちの様子もわかった。
先頭の子どもたちが逃げた距離も「185メートルあまり」から、さらに短くなることは間違いない。
なぜ、こんなタイミングで新たな事実がわかったかというと、親は子供に、その瞬間の様子を簡単には聞けない事情があるからだ。「狭い軒下をどうやって逃げたの?」と、父親が子どもに確認したところ、「排水溝があった」ことを思い出してわかったという。
さて、本題に戻る。
大川小学校のある釜谷の集落は、北上川のほとりから4キロほど上流に位置している。
釜谷集落の住民は108世帯。新北上大橋のほとりの三角地帯から、北上川下流の谷地中墓地の向かいまでの集落が、釜谷と呼ばれていた。
震災当時、釜谷地区全体の戸数は131世帯で、釜谷集落の108世帯と合わせ、三角地帯を折れて雄勝峠方面に上っていく途中にある入釜谷集落の23世帯も、釜谷の行政区に含まれている。
その釜谷集落の108世帯すべてが、震災の津波によって、夢の跡のように消えてしまったのだ(入釜谷集落の被害は3世帯)。
釜谷集落の住民の犠牲者は2012年6月現在、死者・行方不明197人(入釜谷集落は死者・行方不明7人)。釜谷の人口のおよそ半数が一度に失われ、残された住民は、地域から出ていくか、いまも仮設住宅での生活を強いられている。
ちなみに、大川小学校の学区内に当たる大川地区では、三角地帯の向こう側(釜谷より北上川上流)の間垣や、北上川のほとりにある長面、尾崎の集落でも、すべての世帯が全壊していて、釜谷と合わせて4つの集落が事実上、消滅したことになる。
「海あり川あり」の良い所のはずが…
震災で奪われた穏やかな農漁業の暮らし
釜谷の集落には、兼業農家の人たちが多く住んでいた。いま生き残っている住民の大半は、地震が起きたとき、仕事で集落を留守にして、石巻市街地や飯野川地区などに出ていた人たち。「当時、家にいて助かった人は、何人もいない」(釜谷の生存者)という状態だ。
農家は主には、「ひとめぼれ」などの米を栽培していた。中には、漁業権を持ち、しじみを採っていた兼業農家もある。
震災前まで釜谷の集落に住んでいて、現在、大川地区の被災状況等を調査している阿部良助さんは、こう振り返る。
「昔は、この川で、いっぱい採れたんだよね。しじみもウナギも採れたんだ。“ならっぱ”っていうんだけど、楢の木の葉っぱ付けたのを丸めて、ここ一面に沈めておくんですよ。それを揚げて田んぼですくうと、ウナギが皆入ってんです。ものすごい太さのやつ」