文芸春秋に入社して2018年に退社するまで40年間。『週刊文春』『文芸春秋』編集長を務め、週刊誌報道の一線に身を置いてきた筆者が語る「あの事件の舞台裏」。劇団四季の創設者・浅利慶太がミュージカルを日本に根付かせた背景には、文春の存在があった。(元週刊文春編集長、岐阜女子大学副学長 木俣正剛)
ミュージカルを
全然知らない人の意見が欲しい
昭和が終わるころ、「劇団四季」の代表で演出家の浅利慶太さんをホストとする「企業トップのわが決断」という対談企画を担当しました(月刊『文芸春秋』)。
本田宗一郎氏、平岩外四氏など、戦後日本の繁栄を築いた経営者との対談の席に居合わせただけでも勉強になりましたが、浅利さんは単なる対談の担当者である私を、演劇の仕事にずっと連れ回してくださいました。
ミュージカルなど全然知らない田舎者の私です。実際、それまでミュージカルを見たことがありません。それなのに、「衣装から舞台装置まで一緒に見てくれ」といわれます。四季の衣装は森英恵さん。とにかくハンパじゃない一流の人々の前で、「出来上がりを批評しろ」とおっしゃるのです。「いや、まったくの素人ですから」と逃げるのですが、浅利さんはこう言います。
「今からの四季は、今までのお客じゃない客を入れて日本中をミュージカルファンにするんだ。だから、君みたいなミュージカルを全然知らない人の意見がほしいんだ」
マイナーなエンターテインメントに終わるか、メジャーになるか。それはコンテンツをつくる人間を分ける最大のポイントですが、浅利さんはこの時点でメジャーを目指していました。当時の日本の演劇といえば、役者さんが酒場などでアルバイトして、稼いだオカネで練習し、友人たちに切符を買ってもらって成り立つというビジネスでした。
しかし、四季はいち早くその世界から脱却しました。