小倉昌男
 1919(大正8)年、東京の上野広小路交差点に日本で初めて、自動車のための交通信号が登場した。信号といっても、「トマレ」「ススメ」と書かれた木の板を回転させるというシンプルなものである。しかし、手車による移動販売の「挽き八百屋」を商売としていた小倉康臣は、道路から牛馬車が排除されるのを見て、自動車の時代の到来を予感したという。早速、康臣は同年、トラック4台を入手して貸し切りトラックによる輸送会社、大和運輸(後にヤマト運輸、現ヤマトホールディングス)を創業した。早々に三越から配送の仕事を得て、事業は順調に成長していった。

 康臣の長男、小倉昌男(1924年12月13日~2005年6月30日)は、東京大学経済学部を卒業後、終戦から間もない48年にヤマト運輸に入社した。71年、康臣の後を継いで社長に就任。家業の延長で経営概念のまったくなかった運送業に、市場原理に基づいた経営手法を導入していく。そんな中、石油ショックによる景気低迷、さらにガソリン価格の高騰で業績悪化の危機に見舞われるが、そこで小倉が新事業として始めたのが小口貨物の特急宅配サービス「宅急便」だった。

 宅急便のサービスエリアは開始当初こそ関東一円のみだったが、順次、全国へと範囲を広げていく。しかしそれは、官庁との闘いの歴史でもあった。例えば全国各地に荷物を運ぶためには、運輸省(現国土交通省)が交付する路線免許が必要だったが、地元業者の反対を理由に運輸省はなかなか認可してくれない。小倉は、当時運輸大臣だった橋本龍太郎を相手取って行政訴訟に踏み切る。そして見事勝利を収め、路線免許付与の曖昧な基準を改めさせた。また、郵便事業を独占してきた郵政省(現総務省)や郵政公社(現日本郵政グループ)に対しても、“信書”の定義を巡って小倉は徹底的に戦った。

「週刊ダイヤモンド」2000年2月26日号では、すでに会長から退き、相談役や名誉会長の職からも離れていた小倉が、自身の経営手法や宅急便の開発、普及までの経緯などについて、縦横無尽に振り返っている。そして、自身が保有していたヤマト運輸の株式(時価46億円)を投じて設立した「ヤマト福祉財団」で取り組んでいる障害者が自立して働く場所づくりについて、思いを熱く語る。

 小倉は、障害者の働く場とされている「共同作業所」が、事実上は障害者同士が昼間の時間を共に過ごす“デイケア”の場所となっており、その証左に月給1万円に満たない報酬しか支払われていないことを問題視した。そこで、障害者の自立と社会参加の支援を訴え、障害者が月給10万円はもらえるような仕組みづくりに力を注いだ。

「福祉行政で一番いけないのは、働くつらさを通して生きがいを与えていないことです。やはり、汗水垂らして働くということが重要なんです。市場原理が働く社会の中に障害者も組み込まれている。だから、共に汗水垂らす。それがノーマライゼーションではないですか」と、記事中で小倉は語っている。その取り組みの一つが、焼きたてパンの店「スワンベーカリー」。98年6月に開店した銀座店以降、現在では直営5店、フランチャイズ25店に成長し、350人以上の障害者が経済的な自立と社会参加を果たしている。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

他のトラック会社には
戦略的思考がなかった

週刊ダイヤモンド2000年2月26日号
2000年2月26日号より

――ご著書の『小倉昌男・経営学』がものすごく売れていますね。

 10万部ですか、また刷るとも聞いています。僕は5万部はいくと思っていた。手の内を見せているわけだから、郵便局長や同業者は必ず買う。それにヤマト運輸の社員を合わせて5万部だろうと。

――残りの5万部が他業界のビジネスマンということになりますね。

 社員研修に使ったり、社長がポケットマネーで買って管理職に配った企業が2~3社あるようです。

――例えば1960年代半ばに、重量逓減と長距離逓減から成るトラックの許認可運賃表から試算し、小口荷物の運賃が大口荷物より高く利潤が確保できることを発見しますね。それが宅急便の原点だった。