さらには、大事な場面で披露すべき能についてこのように述べる。
しかれば、よき能と申すは、本説正しく、珍しき風体にて、詰め所ありて、かかり幽玄ならんを、第一とすべし
(よい能というのは、正しい古典に典拠をもって、新鮮な趣向を凝らし、山場をきちんと設け、その演出に幽玄さを感じられるような作品を第一とすべきです)
これは、あらゆる場面で高い評価を獲得するための黄金法則である。新しすぎるもの、奇抜なものは、「面白いね」とは言われても一番高い評価は得られないのである。伝統に裏打ちされ、皆が知っている内容に、新鮮さや面白さを付け加えたものが、多くの人の共感を得て、いつも勝利を収めるのである。また比喩として、「世間の半歩先を行くくらいがちょうどよい」ということにも通じるだろう。社会における評価とは何かを世阿弥が教えてくれる。
そして、勝負師としては自分に有利な流れが来ているかどうかにも敏感でなければならない。
時の間にも、男時、女時とてあるべし。いかにすれども、能にも、よき時あれば、必ず、またわろきことあり。これ、力なき因果なり
(時間の流れには、「男時〈おどき〉」と「女時〈めどき〉」というのがあり、どんなに努力しても、能には流れのよいときもあれば、悪いときもあるのです)
男時は良い流れがこちらにあるとき、女時とは相手に良い流れがあるときを意味する。そして、相手に流れがあるときには、それがさほど重要でない立ち合い(試合)だった場合、勝負に負けてもいいので労力をかけずに演じた方がよいという。手をゆるめて控えめに演じていると、観客たちも演者に対しての興味が薄れる。そうしておいて、大事な立ち合いには、手立てを変えて、得意な能をさっそうと演じる。そうすると観客は意外性に驚き感心するから、大事な勝負にも勝つという。
あらゆる場面で「ベストを尽くせ!」などと言わないところが、実践的であり、経営者的でもある。たしかに、普段はそこそこで、いざというときに抜群の結果を出すものの方が、いつも結果を残す優等生よりも、皆から注目され、高いポテンシャルがあると評価されることが多い。