かつての教科書の記述との違い

 しかし、ここでかつて中学社会、高校日本史などで教えられた縄文時代の知識と大きくぶつかることになる。

 あなたは、縄文時代を「およそ一万二千年前から日本列島に住んでいた人類は、残された土器表面の縄による紋様にちなんで縄文人と呼ばれ、彼らの住んでいた時期は縄文時代と称されている。縄文時代はいまからおよそ一万二千年前から二千三百年ほど前の時期で、狩猟採集社会だった。弥生時代に稲作が始まって人々は定住生活をするようになった」と学んでこなかっただろうか。

 現在、縄文時代は、土器の製作技術にもとづいて、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の六つの期間に大きく分けられている。考古学者のあいだで議論はあるが、もし時間的にもっとも長く考えた場合、土器の出現の一万六千五百年前を縄文時代の草創期と仮定するならば、いままでの説より四千年以上もさかのぼることになる。

 定住についても、南日本では約一万千年前に季節的な定住が始まり、一万~九千年ほど前には通年の定住が始まったようだ。その他の地域でも、縄文人は基本的に「定住」していったのだ。なお、現在の日本史教科書には、縄文時代に定住生活していたことが記述されている。

 日本最大級の縄文集落、三内丸山遺跡(約五千五百年前~四千年前の縄文時代前期中葉から中期末の集落跡)に見られるように、人々は栗の木を集落のまわりに植えており、栗の実を食用にし、木材は住居の柱にも利用していた。

 中期の遺跡ではヒスイ、コハク、黒曜石などが多数出土しているが、たとえばヒスイは新潟県糸魚川流域、コハクは千葉県の銚子や岩手県の久慈が原産地である。遠隔地との交易がなされていたのだ。また、エゴマ、ヒョウタン、ダイズ、アズキなどからコメまでの穀類までも栽培していたと見られる。

 土器をつくるときに粘土中にまぎれ込んだコクゾウムシ(コメ専門の害虫)やダイズの痕跡が多数見つかっている。

 おそらく、縄文人は植物の栽培に乗り出していたのだろう。ただし、「農耕」をしていたレベルかどうかには議論がある。コメの栽培などが状況証拠から確実視されていても、稲作が農耕の基本となる弥生時代とは区別して考える考古学者が大勢のようだ。

 今後、縄文時代の年代や縄文人の暮らしのイメージも、大きく変わっていくのかもしれない。

(※本原稿は『世界史は化学でできている』からの抜粋です)

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左巻健男(さまき・たけお)

東京大学非常勤講師
元法政大学生命科学部環境応用化学科教授
『理科の探検(RikaTan)』編集長。専門は理科教育、科学コミュニケーション。一九四九年生まれ。千葉大学教育学部理科専攻(物理化学研究室)を卒業後、東京学芸大学大学院教育学研究科理科教育専攻(物理化学講座)を修了。中学校理科教科書(新しい科学)編集委員・執筆者。大学で教鞭を執りつつ、精力的に理科教室や講演会の講師を務める。おもな著書に、『面白くて眠れなくなる化学』(PHP)、『よくわかる元素図鑑』(田中陵二氏との共著、PHP)、『新しい高校化学の教科書』(講談社ブルーバックス)などがある。