さて、この遠征だが、六角高頼は逃げてしまったものの、義材は園城寺に拠点を置いて戦いを有利に進め、降伏した六角氏の重臣・山内政綱を殺害するなど、六角勢力に大打撃を与えて凱旋したのである。

 これに気を良くした義材は、前管領の畠山政長(応仁の乱の原因をつくった人物)を重用し、今度はその政長の願いを聞き入れ、畠山基家(かつて政長が応仁の乱で争った義就の子)の拠点である河内国へ遠征を宣言したのである。

 細川政元は近江への出陣も反対していたが、今度の河内征伐も強く反対した。だが、義材はそれを黙殺して河内への遠征を強硬した。一説によれば、河内平定後、義材は自分の行動にことごとく反対する細川政元を滅ぼしてしまおうと企んだという。

 一方、ここで政元も幕府の元管領という立場にありながら、将軍義材の排除に動いたのである。そうした決意に至らしめたのは、日野富子が政元の味方をしたことが大きいとされる。

 研究者の大薮海氏は、「義政・義尚が没した後の日野富子は足利将軍家の事実上の家長であり、義材を後見すべき立場にあった。その富子は、義材が自身の権力強化のために近江国のみならず河内国にまで諸大名を動員し、そのことによって細川政元をはじめとする大名たちと溝を深めている状況をみて、義材に見切りをつけた」(前掲書)と論じている。

 将軍義政の正室で、将軍義尚の生母である富子は、足利将軍家で絶大な信頼を集めていた。そんな彼女が手を結んでくれたからこそ、政元はクーデターを決行する決心がついたのだ。

家臣が将軍を自由に替える時代となった

 明応3年(1494)4月22日、細川政元は突如挙兵し、清晃(足利政知の子)を自分の屋敷に迎え入れ、義材を廃して新将軍にこの清晃を擁立することを宣言した。

 これが、「明応の政変」の始まりである。ちなみに政元はまだ28歳、意外に若いことに驚く。ちょうどクーデター時、将軍・義材は京都を留守にしていた。守護大名や直臣(奉公衆)を引き連れ、河内国内で畠山基家勢を激しく攻め立てていたのである。だから都でのまさかの事態は、青天の霹靂だったことだろう。