さらにここ三十年余りで、日本は「自己責任」論が声高に叫ばれる国になりました。ホームレスになったのはその人が努力しなかったから。非正規雇用者が簡単にクビになり、ボーナスももらえないのは、その人が正社員になろうと努力しなかったから。ひきこもりなのは、自分が努力しないから。パート暮らしで生活が苦しいシングルマザーは、その人生を自ら選択したから。「生活保護」者は、働くのが嫌で楽をしたいから。すべて自分の「選択」の結果なのだから、仕方がない。なぜ社会に文句を言うのか――。

 しかしこれらは、はたして本当に「自分」が頑張ればどうにかできた問題ばかりなのでしょうか。

 たとえば貧しい田舎から出てきた若者が、建設現場に住み込みで働き、兄弟が継いだ実家に戻ることもできず、マイホームも持てずに老いていく場合、そこに社会の構造的課題はなかったのでしょうか。非正規雇用では社会保障や貯蓄は難しく、病気や怪我をすれば職も住まいも同時に失います。気づいたら路上で生活していたような場合、本人の自覚や努力が足りないと一方的に責められるものでしょうか。

 あるいは、たまたま大学卒業時に経済不況が重なった世代は、仕方なく派遣や契約社員として社会人生活をスタートします。しかし新卒一括採用が一般的な大手の日本企業が、既卒でかつ派遣しか経験してこなかった人を正社員として雇用することはほとんどありません。専門的な職業訓練を受ける機会も得られず、生涯にわたり不安定な雇用状態を余儀なくされる。そういった時代の不運も、本人の努力不足ゆえでしょうか。

 どんな土地に生まれるか、どんな教育レベルの親のもとに生まれるか、どんな時代に生まれるか、どんな人間環境で育つのか、そういったあらゆる関係性が物心つかない頃から私たちの言動や人生の選択に影響を与えていきます。それらを「自己責任」の一言で片づけるのは、想像力の欠如以外の何ものでもないと、私は考えます。

新型格差社会『新型格差社会』
山田昌弘 著
定価825円 (朝日新書)

 こう想像力を働かせることはできないでしょうか。

「では、自分が仮に路上生活者の下に生まれたとしたら、自分はそれでも立派な塾に通い、有名大学に進学して、勉学に専念することができたかどうか」と。

 ある人物が大学に進学して成功している。その背後には、自分自身の努力以上に、その人の教育にお金をかける価値を見いだした親の存在があるのです。「勉強などしても無駄だ。それより高校を出たら働け」と強制せず、「あなたの努力は報われる。進みたい学校に進みなさい」と背中を押して見守ってくれる家庭に生まれたという幸運が、多くの場合根底を成しているのです。現在日本にはびこる「自己責任論」を、私たちはもう一度よく考え直す時期に来ているのではないでしょうか。

AERA dot.より転載