腎臓病で入院続いた小学生時代
PTSDで深呼吸もできない体に

橋本 私は小学校3年生から4年生にかけて、腎臓病になって入院生活を送りました。小学校いっぱいは療養生活、ほとんどスポーツと無縁なんです。でも、聖子という名前を付けてもらって、8歳の時には札幌大会の聖火を見て「スケート選手になってオリンピックに出場する」と決めていましたから、頭の中でだけオリンピックが広がるわけです。まだ小学生で、腎臓病の怖さがわからなかったからよかった、と後になって思いました。

 再発したら大変なことになるからって、完全にスポーツから切り離されて。小学校4年生の時は私だけ「毎日が土曜日」だったんですよ。学校にいると、子どもだから遊んじゃう、疲れたら再発する。だから半ドンで、運動会もダメ、体育の授業もずっと見学でした。

 とにかく病弱でした。それまではオリンピック選手になるために、スケートとか自転車とか、やれるスポーツは全部やっていたんですけど、病気で生活が一変しました。なんとかオリンピックに出たい、その一心で、中学に入ってからスケートを始めたんです。

小林 丸3年以上、スポーツができなかったんですか。

 高校(駒大苫小牧高校)に入るともう、オリンピックで活躍を期待される選手になっていましたよね。

橋本 はい。でも結局、高校3年でまた腎臓病が再発したんです。苫小牧の市立病院に検査に行ったら、とんでもないことになっているとすぐ入院させられました。自分でも、むくんできたのはわかっていたんで……。激しいトレーニングもしましたからね。オリンピックがもう1年半後だったので。

小林 知りませんでした。それはショックというか、目の前が真っ暗になったでしょう。

橋本 ショックで、精神的に病んじゃったんです。PTSD(心的外傷後ストレス障害)で、深呼吸のできない体になってしまいました。胸の筋肉にまひがきてしまって、深呼吸ができない。「こんな病気、見たことない」とお医者さんに言われて、紹介状を書いてもらって、札幌の心肺専門病院に転院するんです。自分の力で酸素が吸えなくなって、酸素マスクをしながら入院していました。

 付けられた病名は「ストレス性呼吸筋不全症」でした。それ以来、腹式呼吸しかできません。胸の筋肉が開かないんです。現役で競技をしていたころもずっと、腹式呼吸しかできなかった。肺活量は2400、トップ選手の半分しかありません。最大酸素摂取量(VO2 MAX)はトレーニングの質を変えて高くしました。それで富士急行に行ったんです。高地トレーニングをやる場所が北海道になくて、いまは室内で空気圧を変えられる時代ですけど。

 当時は、筑波大学で登山のための気圧変化を研究する施設しかありませんでした。富士急行は富士山の5合目でトレーニングをやっていると聞いて、大学進学をあきらめて選びました。

 オリンピック選手になりたい一心でやってきたのに、オリンピックの1年半前に病気が再発した。しかも18歳の時、医療事故に遭って、B型肝炎にかかってしまいました。少し前までキャリアでした。いい薬に出合ってようやく治りました。

 普通だったら、あきらめてもいいところだったんです。でも、私にとってはオリンピックが生きる土台なので、これを克服しなきゃいけない、その思いで取り組みました。

小林 禁止薬物が服用できないから、治療も制約があったでしょう?

橋本 最初のオリンピックでは許されていた薬が、2度目には使えなくなったので、体質改善をして、ドーピングにかからない薬だけで挑戦しました。医学的には「ウソだろう」というような不可能を可能にしてオリンピックの舞台に立った感じです。

小林 橋本会長とオリンピックと医療には、そのような深い因縁があったのですね。

橋本 政治の世界に入ったのも、スポーツを通じて、医療の改革をしたいという思いがあったからです。日本では、オリンピアンが政治家になるというと、名前だけでなるのかと言われがちです。そうかもしれませんけど、名前だけでは国会に長く居続けることはできません。