宇沢がこの本を著したのは、経済学の本来の目的である経世済民の実現の方策を示すためであり、当時の主流派で、シカゴ大学でのかつての同僚だったミルトン・フリードマン的な新自由主義的な市場原理主義の経済学が、経済学の本来の目的に照らして、明らかに間違っていると指し示すことが目的だった。もちろん、専門的な手続きや考察を経たうえで、である。

「ゆたかな社会とは、すべての人々が、その先天的、後天的資質と能力を充分に生かし、それぞれのもっている夢とアスピレーションが最大限に実現できるような仕事にたずさわり、その私的、社会的貢献に相応しい所得を得て、幸福で、安定的な家庭を営み、できるだけ多様な社会的接触をもち、文化的水準の高い一生をおくることができるような社会である」(以下、引用はすべて岩波新書『社会的共通資本』による)。

「ゆたかな社会」は
本当に夢物語なのか

 格差社会、コロナなどの厳しい現実を生きる現代の読者には、宇沢の言う「ゆたかな社会」は夢物語にしか思えないだろう。しかし宇沢は、このような社会は「社会的共通資本」を中心とした「制度主義」の考え方によって実現できると考えていた。

 まず、制度主義から説明しよう。「経済制度は一つの普遍的な、統一された原理から論理的に演繹されるものではなく、それぞれの国ないしは地域のもつ倫理的、社会的、文化的、そして自然的な諸条件がお互いに交錯して創り出されると規定する。よって経済発展の段階に応じて、また社会意識の変革に応じて常に変化する。これらのプロセスを通じて、経済的、政治的条件が展開されるなかから、その場所に最適な経済制度が生み出される」

 全世界にあてはまるような、便利で統一的な経済システムのモデルなどというものはなく、地域ごとに、その地域が持つ諸条件を織り込んだ適切な制度があるという考え方である。この場合の制度とは、地域ごとの自然環境や、そこで発展した文化や歴史や産業に根ざしたローカルな性質に基づいており、その地の人間の知識、技能、好みなどの思考習慣を内包し、しかもその制度が状況に応じて変化することまでを含む。

 宇沢が拠って立つのは、生産と労働の関係が最優先ですべてを決定すると考えるマルクス主義的な思考でもなく、社会や文化とは独立して最適な経済制度を設置できると考える新古典経済学の立場でもない。