私自身の家庭環境を振り返ってみると、父親は精神障害者で定職に就けず、年収100万円程度の時もあるなど、極度の貧困家庭だった。父の暴力も激しく、家にはエアコンも勉強机もなく、学習環境さえなかった。経済的な理由で塾はおろか運動系の部活さえさせてもらえず、制服も買ってもらえず寸足らずのお古を着ていた。これだけ見れば間違いなく親ガチャの外れをひいた人生で、社会的弱者だといえる。

 しかし、それは一側面にすぎない。

 見落としてはならない大きな要素として、私が勉強場所として利用していた20分ほどかかる市立図書館に親が毎日迎えに来てくれた。また、大学進学に関しても好きにしなさいというスタンスで、国公立大学の合格圏内に入ると応援もしてくれた。

 入学金が払えず一時は進学をあきらめかけたが、知人をあたって借金してくれたおかげで、なんとか公立大学に入学することができたのである。また、確かに私立受験や浪人という選択肢がなかったことは痛手だったが、塾なしで国公立大学に入学できる基礎学力があったことは、恵まれた点と言わざるを得ないだろう。

「親ガチャ」は格差問題に対する若者からの訴え

 人生の成果は、ベース×本人の努力だろう。

 ベースを細分化すれば親の所得や生まれ育った環境、資質や文化的資本などがそれにあたる。「親ガチャ」という言葉はベースだけで結果が決まるというニュアンスが強かったため、反感もあったのではないかと推察する。

 たとえば若くして成功した実業家が、結果が出たのは実家が太かったからだろ、と言われたらムッとするだろう。そこには本人の努力もあったはずだ。しかし、そこで本人の努力次第だと言い切ってしまえば、結局自己責任論や根性論になってしまう。

 私が思うのは、自分の置かれた状況や抱えている問題が、個人の問題ではなく、社会的要因のある社会問題だ、と気づくことの方が難しくなおかつ重要である、ということだ。