インフラ面で制約を抱えるミャンマーにおいて、現段階でより進出しやすい業態は、現地の安価な労働力を活かせ、かつそれほど電力を必要としない事業だ。製造業において、縫製業はその代表的な存在で、日本向けの生産ニーズが高まっている。今回は、そのような業態の例として、現地の靴製造工場のケースを取り上げたい。
今回もどちらかというと、大規模な工場よりも、現地の声が聞こえやすい比較的中小規模の工場を対象にした。今回のインタビュー先は、ミャンマー近郊の工業団地で靴工場を営むGolden Myint社のAung Min社長だ。彼との話で見えてくるのは、経済ブームとは裏腹に、資金調達や受注確保に向けて苦労する工場経営者の姿だった。また、他の多くの現地の経営者と同様に、日本企業に対する高い評価も聞こえてくる。彼らの抱えている問題や日本企業に対する期待感を理解することで、日系企業として事業提携先候補会社にどのようにアプローチすることが有効なのかが見えてくる。
田園風景の片隅にある靴工場
Photo:Japan Asia Strategic Advisory
まだミャンマー市街から車で1時間も経っていないだろうか。幹線道路から外れた細い道の周りには草木が生い茂り、昔ながらの家が点在した、のどかな田園風景が広がっている。ヤンゴンから少し外れると、世の中のミャンマーを取り巻く慌ただしい動きとは切り離された、牧歌的な世界がそこにある。Golden Myint社の工場はそんなヤンゴン郊外のSouth Dagon工業地帯の一角にあった。平屋建ての工場の中で、ざっと300人ほどの作業員が革靴やサンダルを製造している。騒がしい機械の音が鳴り響く工場の片隅にある社長のオフィスでインタビューが始まった。
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――この靴工場のビジネスはいつから始めたのですか。
社長 2005年に、この工場を買い取って始めました。
――それまでは何を主に行っていたのですか?
社長 私は、この仕事を始めるまでいろいろな仕事を転々としています。大学を1981年に卒業し、それから1988年までは、日系の会社で働いていました。その会社は医療機器の備品等を製造販売していた会社で、政府の病院に製品を納めていました。その頃は何度か日本にも行きましたよ。その後、1988年にそれまでの社会主義政権が終焉し、会社の設立や事業の運営がしやすくなったので、自分でも会社を興すことにしました。1990年にタイにわたり、小さな海運会社を始めました。小さな船を3隻所有し、タイやカンボジア、ミャンマー、シンガポールと、ASEANの国々の間で荷物を運びました。タイには10年ほどいて、2000年にミャンマーに帰ってきました。その後はまた、ミャンマーで貿易関係の仕事をしていました。