東日本における生糸の産地としては群馬、福島、長野(諏訪地方)が有名だ。このうち群馬には1884年に高崎線が開通、1889年には両毛線も全通した。福島でも1887年に東北線が開通。これらの路線は、現在の埼京線・山手線を経由して東海道線に乗入れ、横浜まで生糸を直送した。

 一方、1877年に生糸生産量、1880年に生糸輸出額で日本一になった長野の鉄道開業は遅かった。1893年に信越本線が上野から高崎、軽井沢経由で長野まで開通したが、諏訪地方の生糸生産の中心地であった岡谷に中央線が到達したのは、さらに遅れて1905年のことだった。

 余談になるが、筆者の母方のルーツは岡谷にあり、かつては生糸を扱う商売をしていたという。曽祖父は仕事で度々、横浜に出向いていたそうなので当然、横浜鉄道にも乗っていたのだろう。

 岡谷には幕末に建てられた家が今も残っており、商家だった面影を色濃く残す。ある時、ふとタンスの敷き紙が年代物なのに気付きよく見てみると、それは明治末期の新聞紙で、株式欄には横浜鉄道の株価が掲載されていたなんていうこともあった。その頃から時計の針が止まっているような家なのだ。

 同様に岡谷にとっても製糸は過去の遺物だ。群馬や福島では現在でも養蚕・製糸が続いているのに対し、岡谷では戦時中に多くの製糸工場が軍需工場に転用され、戦後は精密機械工業へと転換を図ったことで産業としては途絶えている。現在は市立岡谷蚕糸博物館「シルクファクトおかや」がかつて「世界一」と謳われた生糸の街の盛衰を伝えるのみだ。。

横浜の有力者らが中心となり
八王子~横浜間の鉄道建設を構想

 話を元に戻そう。鉄道開通が製糸業に与えた影響が大きいのは間違いないとしても、生糸の輸出は1859年の横浜開港以降、つまり鉄道が開業する以前から行われていたことを忘れてはならない。

 群馬や福島では水運を活用して横浜まで長距離輸送を行っていたそうだが、水路がなく、道も険しいのが長野からのルートだ。鉄道開業以前、長野や山梨の生糸は馬車や人力車で八王子に集められ、八王子と横浜を結ぶ浜街道(神奈川往還)を経由して横浜に運ばれた。そのため浜街道は「絹の道」とも呼ばれる。