伊藤忠商事Photo:123RF

大戦景気から一転
4つの恐慌で苦境に

 大戦景気は長くは続かなかった。

 戦争が終わり、ヨーロッパ諸国の生産力が回復してくると、日本の輸出は後退し、貿易収支は輸入超過に転じていく。重化学工業の分野では質のいい輸入品が増加していき、国内の製造業を圧迫した。

 1920年、株式市場が暴落し、綿糸・生糸の売れ行きが止まった。東京株式取引所の株価は最高値の5分の1にまで下落、生糸の価格は4分の1に、綿糸は3分の1に、米は2分の1以下にまで、値を下げた。これが戦後恐慌である。

 繊維商社は戦後恐慌に直撃され、中小の綿布綿糸商は倒産が相次いだ。伊藤忠もまた大戦景気の気分は吹っ飛び、苦境にあえぐことになる。

 二代忠兵衛は「大正9(1920)年以降の苦しみは言語に絶する」と社史に述べている。彼が「大正9年以降」と記述しているのは、その後も恐慌が続いたからだ。

 戦後恐慌の後、景気はやや回復するのだが、それから10年の間に3つの恐慌が襲ってきた。

 1923年の震災恐慌、27年の金融恐慌、そして30年の昭和恐慌である。

 つまり、第一次大戦中から終結の年までは景気が良かったが、その後、日本経済は相次ぐ恐慌に疲弊したのだった。

 戦後恐慌に際して、伊藤忠は木綿相場で損失を被っただけでなく、得意先の機屋(はたや)、商社などから代金が入ってこずに大きな債務を背負った。

 二代忠兵衛は債務処理のため伊藤一族の資産を投げ出し、会社経営だけは続けることができた。同時に、繊維機械類の取引などをやめ、綿糸、綿布だけの営業に集中した。それだけにとどまらず、経費節減を徹底し、人員整理を行わざるを得なかった。

 拡張してきた事業を縮小し、再起のための資金をため、時間を稼いだのである。