ウェルビーイング・テクノロジーの市場が
急成長している3つの理由

――日本では慶應義塾大学の前野隆司教授による研究など、アカデミアの分野においてはウェルビーイングの研究は以前から行われていましたが、ビジネスの分野でウェルビーイングという言葉が使われ始めたのはここ数年の印象です。なぜ今、それほどまでにウェルビーイング・テクノロジーの市場が急成長しているのでしょうか。

 おっしゃる通り、アカデミアのほうでは早くから注目されていました。「Human Flourishing」(持続的幸福感)や「Flow State」(最高のパフォーマンスができる状態)などを研究する研究所がスタンフォード大学やMIT(マサチューセッツ工科大学)にできたり。ビジネスの分野でウェルビーイングに注目が集まるようになったのはここ2~3年でしょうか。日本では1年ほどかと思います。

 アカデミアでは「どのような精神状態でいる時に高いパフォーマンスが出せるか」といったことはよく研究されていて、そのような科学的知見をプロダクトへ生かし、ウェルビーイング・テクノロジーが発達したという経緯があります。

 ではなぜ、ここ数年で市場が急成長しているのかですが、その社会的背景には3つの要因が考えられます。まず、パンデミックが起きたことでウェルビーイングの重要性に人々があらためて気付いたということ。次に、世代的価値観の変化です。ミレニアル世代やZ世代にとって、ウェルビーイングというのは彼らが生きていく上での指標のひとつとなりつつあります。

 こうして自分らしさや多様性を大切にする若者が増えると、企業側がウェルビーイングのニーズを検知します。これが3つめの要因ですが、企業がウェルビーイングをどのように経営に取り込むか、真剣に考えるようになってきたんですね。すると、これまで消費者つまりBtoCのソリューションが中心であったウェルビーイング・テクノロジーに、BtoBのソリューションが次々と生まれてくるようになったのです。

――ウェルビーイング・テクノロジーには、具体的にどのようなものがあるのでしょうか?

 ウェルビーイング・テクノロジーは、主に3つのカテゴリーに分かれています。

ウェルビーイング・テクノロジーの3つのカテゴリーとそれぞれの市場規模 ウェルビーイング・テクノロジーの3つのカテゴリーとそれぞれの市場規模 提供:NIREMIA Collective 拡大画像表示

 ひとつは「メンタルや感情に関するウェルネス」をサポートするテクノロジーです。たとえば今、こうして初対面で話していますが、コミュニケーションに慣れている同士であれば、普通に会話することが可能です。こうした私たちの状態をグラウンドゼロ・レベルとすると、「緊張して前日の夜、よく眠れなかった」「ずっとソワソワしている」「ゆううつだ」「朝、ベッドから起きられなかった」というメンタル的にマイナス・レベルの人もいるはずです。アルコール依存や薬物依存に陥ってしまう人もいるかもしれません。そうした人たちを、社会的に適応した形で機能できるレベルに戻したり、そうなる前に予防したりすることに特化したカテゴリーです。現在、160兆円の市場規模があると言われています。

 具体的な例としては、昨年の12月に日本でもリリースされた「Calm」(カーム)は、音楽や音読、メディテーション(瞑想)などを通して、精神的に落ち着いた状態になることをサポートするソリューションです。5年前の評価額6億円から、現在は2200億円、およそ367倍に成長しています。

 また、企業のBtoBソリューションでは「Happify」(ハピファイ)というものがあります。福利厚生のひとつとして企業へ提供していて、従業員の心身の健康状態をモニタし、特に精神的な健康状態が著しくない場合は、「PCを閉じてしっかりと睡眠をとりましょう」「きちんと水分を取ってください」「一度、深呼吸をしましょう」など、AIボット「Anna」がその人の状態に寄り添った行動変容を促してくれます。それでも改善が見られない場合は、カウンセラーとのマッチングを行います。

 2つめは、「職場や学校など社会における対人関係のウェルネス」をサポートするテクノロジーです。コロナ禍によって世界中でリモートワークが急速に進みましたが、同時にリアルなコミュニケーションの場がだいぶ失われました。「せっかく集まったのでコミュニケーションを取ろう」という心境になりづらく、「相手に時間をもらっている」という意識から、Zoomで会議にするにしても、アジェンダドリブンで行われ、スキマ時間に人と人との関係が結ばれるということが難しくなっています。休憩所やトイレなどで会話が生まれる機会も、後輩が先輩を見ながら仕事を学ぶ機会も減っています。

 また、AIに人間の仕事が奪われるという話がよく取りざたされますが、人間とAIが共存していくうえで人間が大事にしなければならない、人間独自の能力があります。

・Curiosity(好奇心)
・Creativity(創造力)
・Communication(コミュニケーションスキル)
・Collaboration(コラボレーションスキル)
・Critical thinking(多様な角度から総合的に思考する力)
・Cognitive(ノンバーバルでも認知・認識できる力)
・Confidence & Conviction(自信と信念をもって人々を巻き込んでいく力)

 これら7つの能力は「C」から始まるため、「7C」と呼んでいます。

「リモートワークの普及」と「AIの共存」、私たちの働き方に押し寄せるこの2つの波を乗りこなし、そして「7C」をサポートするのがこのカテゴリーです。こちらは130兆円の市場規模があると言われています。

 たとえば、Zoomで打ち合わせしている時、「1対1」であれば相手の反応はわかりますが、これが「1対30」や「1対50」、「1対200」とかになり、さらに講演者以外が画面と音声をオフにしていると、受講者の反応が見えないまま、ひとりで話し続けることになります。話している内容がウケているかどうかまったくわからず不安になるかもしれません。この時に、エモーショナルAI(感情認識AI)を活用したソリューションで、参加者の表情からエンゲージメントが下がっている、寝ている人が増えている、といったことがわかると、適当なジョークを挟んで参加者のエンゲージメントを取り戻す工夫ができたりします。こういった、Future of Workに関するテクノロジーも範疇(はんちゅう)です。

注目されるウェルビーイング・スタートアップ。中でもCalm、Happify、OURAなどはここ数年で著しく成長している注目されるウェルビーイング・スタートアップ。中でもCalm、Happify、OURAなどはここ数年で著しく成長している 提供:NIREMIA Collective 拡大画像表示

 3つめは、「自己実現とパフォーマンスの向上」をサポートするテクノロジーです。自己実現したい、パフォーマンスを向上したい、こういった想いをサポートするテクノロジーです。こちらは90兆円の市場規模があると言われています。ここで大事なのは、環境とパーソナライズされたデータです。

 私たちはつい忘れがちですが、環境というのはウェルビーイングにとって非常に重要です。光や香り、音など、人間の五感に関わってくるものすべてが環境です。暑い中で通勤してきて、オフィスに入った途端にさーっとラベンダーの香りするミストを浴びることができたり、ほっと一息つける仕組みがあったり。また、飲食店の入った複合ビル内に会社があるとして、ミーティングの時間をふまえ「そろそろランチへ行ったほうがいいですね」とお知らせしてくれたり、「今日は野菜が足りていないので、サラダバーのおいしいお店はどうですか? このお店なら11時半に予約できますよ」といった個人データと環境データを掛け合わせた提案をしてくれたりと、こうしたテクノロジーもこの範疇です。

 個人的なデータを生かしながら自己実現やパフォーマンスを上げるテクノロジーには、たとえばミュージックアプリでこのようなものがあります。アップルウォッチから体温や心拍数、脈拍といったその人の生体データを取得します。加えてGPSから今いる場所や気温、天気、風の向きなどがわかります。そこで、集中したい、リラックスしたい、眠りたいなど、自分のなりたい状態を選び、それらのデータをかけ合わせ、その都度、最適な音楽をカスタマイズして流してくれるというものです。これが車に搭載されていれば、大渋滞に巻き込まれてイライラしてくるとその脈拍数を察知し、心が落ち着くようなスムースな音楽を流したり、運転中に眠くなって脈拍数が落ちてくると、その人が好きなテンションの上がる曲を流してくれたりしてくれます。