渋沢栄一渋沢栄一(右端) Photo:Buyenlarge/GettyImages

 「東の渋沢、西の五代」と並び称された、明治初期の起業家・経済人である渋沢栄一と五代友厚。12月26日(日)に最終回を迎えたNHK大河ドラマ『青天を衝け』では、それぞれを吉沢亮、ディーン・フジオカが演じた。いずれも産業分野におけるパイオニアである。幕末期から活躍した“勝ち組”の五代と、パリ万博から帰国後“負け組”から逆転を果たした渋沢との関係性を追ってみよう。(ジャーナリスト 桑畑正十郎)

薩摩藩が出し抜いたパリ万博
渋沢は五代の影も踏めず

 五代友厚と渋沢栄一の最初の接点はパリである、と言っても過言ではあるまい。

 幕末、薩摩藩士として鹿児島城下に生まれた五代友厚(幼名・才助)は、薩英戦争後の1865(元治2)年に薩摩藩遣欧使節を率いて渡英。その後、ロンドンで英国との折衝や武器・機械購入に奔走していた際、1867(慶応3)年に開催予定の「第2回パリ万国博覧会」のことを知る。接触してきたのは、ベルギー・フランス貴族のモンブラン伯爵(白山伯)だった。

 パリ万博は日本が初めて正式に参加を働き掛けられた万博で、幕府が各藩に出品を呼び掛けていたが、五代らは「薩摩藩が実質支配する琉球王国を利用して、独立した展示を」と企図した。

 すでに薩摩藩の外交を任されていた五代が、フランス世論を味方につけるためにモンブラン伯と画策。開幕前に五代は帰国してしまうが、パリでは徳川慶喜の実弟・昭武を将軍名代とする幕府使節団を出し抜き、フランスにおける“外交戦”を薩摩藩有利に進めさせた。このとき、幕府側の末席に、若き渋沢栄一(当時は篤太夫)も随行していたのである。