重要な政治決定の裏側には、スパイが絡んでいる。かつての国際的な危機や紛争、国家元首の動きもすべてお見通しだった。それは単なる偶然ではない。政治指導者の力でもない。さまざまな情報を分析したスパイたちのおかげだった。イギリスの“スパイの親玉”だったともいえる人物が、『イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術 ――残酷な時代を乗り切る10のレッスン』を著した。スパイがどのように情報を収集し、分析し、活用しているのか? そのテクニックをかつての実例を深堀りしながら「10のレッスン」として解説している。マネジメントを含めた大所高所の視点を持ち合わせている点も魅力だ。本書から、その一部を特別公開する。

【イギリスの元スパイが説く】激しい拷問の末、射殺されたスパイPhoto: Adobe Stock

激しい拷問の末、射殺されたソ連のスパイ

イギリスとアメリカへ情報を流すスパイとなり、キューバ危機において重要な役割を果たしたソ連軍参謀本部情報総局(GRU)のペンコフスキー大佐のスパイ活動は、悲劇に終わった。彼のフィルムは、ソ連に監視されているなかで、デッド・ドロップ(秘密受け渡し地点)まで運ばれた。

引き渡すべきものがあるときは、街灯柱に印がつけられた。この手法は、のちにイギリスのスパイ小説の巨匠ジョン・ル・カレの作品で知られるようになる。受けとり役を務めたのは、英秘密情報部(MI6)の作戦要員の妻で、正体を隠してモスクワの大使館で働いていたジャネット・チザムだった。チザムはこの任務を志願し、ペンコフスキーがロンドンを公に訪問した際、彼に会っている。

チザムがモスクワのツヴェトノイ・ブリヴァールの歩道のベンチに座って、自分の子どもたちが遊んでいるのを見ていたとき、私服のペンコフスキーが通り過ぎたのは偶然ではなかった。

ペンコフスキーは子どもたちに話しかけて、この目的のためにロンドンで渡されていた小さな菓子の箱を渡した。なかには、ロンドンとニューヨークの諜報部門が一刻も早く必要としている文書のマイクロフィルムが隠されていた。

同じような受け渡しが何度か続いた。しかし、チザムはその後、定常的な監視の対象とされ、運悪く、偶然を装ってロシア人と接触するところを目撃された。ソ連国家保安委員会(KGB)は、すぐにはその人物を特定できなかったが、さらなる調査によって、ついにペンコフスキーの逮捕に至った。

仲介役の諜報連絡員であるイギリスの企業家グレヴィル・ウィンは、ハンガリーの首都ブダペストへ出張中に誘拐され、ペンコフスキーとともにモスクワで見せしめの裁判にかけられた。両者ともに有罪判決がくだされ、ペンコフスキーは激しい拷問の末、射殺された。

ウィンのほうはソ連の刑務所に何年間か投獄され、1964年にアメリカで有罪判決を受けたKGBのスパイ、ゴードン・ロンズデール(本名コノン・モロディ)と彼の連絡役だった古書商人のピーター・クローガー、その妻ヘレンの3人との交換でイギリスへ帰国した。

クローガー夫妻は、KGBスパイのロンズデールが、イギリス南部ポートランド島のイギリス海軍本部研究所でスパイ組織を運営する手助けをした。

オープンソースから情報分析する「オシント」

ペンコフスキーは、いまなら関連するデータベースにアクセスする方法を見つけて、もっと安全にミサイル計画の機密を盗み出すことができただろう。いまやデジタル衛星は地球のどこの画像も撮ることができる。高解像度カメラを搭載した遠隔操縦航空機がつくられたおかげで、精度の高いデジタル画像が軍事・警備・治安、または農業・公害防止・調査報道・そのほかの公共目的に利用されるようになった。

どんな事件が起こっても監視カメラがあるし、そもそも個人が高解像度カメラ付きのスマートフォン(あるいはドローン)で事件を撮影できる時代だ。テレビ局などの報道機関は、そうした動画をすぐにアップロードできるサイトを用意している。誰もが、偵察員になる可能性があるのだ。

もっとも、デジタルデータがあまりに増えたため、その分析が不可能になる危険もある。膨大なデジタル情報のなかから、重要だと思われるものを選り分けるために人工知能(AI)のアルゴリズムを活用する必要も出てくる。アルゴリズムは、ベイズ推定で求める結果をいかに探せばいいかを学習する。

ある人間の顔が大量の顔写真データのなかにあるか、データベースのなかに筆跡のサンプルと一致するものがあるか、というように調べる目的が明確であれば、アルゴリズムはとても効率がいい(しかも人間より信頼性が高い)。ただし、アルゴリズムが信頼できるのは教え込まれたデータについてだけなので、誤認識することもある。アルゴリズムが選んだデータを精査し、意味づけをするには、やはり人間の情報分析官が必要だ。

同時に、デジタルの世界には、敵が匿名でネット上の操作をしたり、こちら側のシステムに侵入して機密を盗んだりする機会が多い。こうした脆弱性があるため、民主主義の社会では、厳重な安全対策のもと、攻撃を仕かけてくる者たちの証拠を大量のデータから見つけ出す目的で、治安・諜報機関に膨大なデジタル情報を扱わせる。

情報をデジタル化する副次的効果は、「状況認識」の民主化だ。強力な検索エンジンを使えれば、誰もが情報分析官のようなことができる。かつては夢にも思わなかった情報収集力が、インターネットから得られるのだ。

オープン・ソース・インテリジェンス(オシント)と呼ばれる、公開されている情報ソースからデータや情報を収集して分析する新しい分野もある。

これは、たとえば選挙で投票すべき党を決めるために各候補がどんなことを表明しているかを知りたい、あるいはどこかの不動産価格を詳しく調べたい、どの大学が最も有意義なコースを提供しているかを知りたい、といったときに利用される。

インターネットは、正しい決断に必要な状況認識を可能にする。ただし、情報分析官と同じように情報の識別が必要なことを忘れてはいけない。

グーグル画像には100億以上の写真や絵がインデックス登録されている。世界中のどこでも、住所を入力すればグーグルのストリートビューで建物を見ることができ、方向や情報が示された地図が提供されて周辺を仮想ドライブできる。ヨーロッパのほぼ全土にわたって、列車・船・輸送用コンテナの位置が地図上に表示される。画像ライブラリーを検索すれば、ほんの一瞬で場所・人物・アート作品などを特定できる。

創意工夫と経験があれば、ネットを駆使することで諜報機関や大手放送局に劣らない「状況認識」ができる。

イソップ寓話(ネコの首に鈴をつけて近くに来たのがわかるようにしようと思いついたものの、どのネズミも鈴をつける役を引き受けたがらないという話)から名前をとった英調査報道機関「ベリングキャット」は、民間人とジャーナリストによる戦争犯罪、紛争地域の状況、重大な犯罪者の活動について、非公式な調査の結果を公表している。

最も注目を浴びたのは、英秘密情報部(MI6)の工作員だったロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)高官セルゲイ・スクリパリとその娘を、イギリス南部ソールズベリーで殺害しようとし、なんの罪もない市民を殺害した2人のGRU局員の正体を公開したことだ。

デビッド・オマンド(David Omand)
英ケンブリッジ大学を卒業後、国内外の情報収集・暗号解読を担う諜報機関であるイギリスの政府通信本部(GCHQ)に勤務、国防省を経て、GCHQ長官、内務省事務次官を務める。内閣府では事務次官や首相に助言する初代内閣安全保障・情報調整官(日本の内閣危機管理監に相当)、情報機関を監督する合同情報委員会(JIC)の委員・議長の要職を歴任したスパイマスター。『イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術 ――残酷な時代を乗り切る10のレッスン』を刊行。