サッカー強豪校の特待生が、
ストレスを募らせ問題児に
両親が働く工場幹部の働きかけで、クリスチャンは、青森にあるスポーツ名門校の「外国人スポーツ特待生枠」の試験を受ける。
「その頃は全然日本語がわかりませんでした。面接の時は身振り手振りで、必死にサッカーが得意だということをアピールしました。結局、スポーツテスト、50メートル走とか幅跳びとか、サッカーの実技試験をやって、すぐに合格しました。特待生だから授業料は免除でした」
高校に入学したクリスチャンは、学校の近くにある寮で他のスポーツ特待生たちと共同生活を送ることになった。しかし、両親が暮らす町とその高校は、車で2時間以上も離れていた。言葉もわからない異国での生活は、思春期のクリスチャンにとって厳しいことも多かった。
「授業なんてほとんどわからないから寝てましたね。放課後の部活だけが楽しみだった。こっちに来てはじめて、日本にもいいサッカー選手がたくさんいることには驚きました。でも、15歳くらいだと、体力もテクニックもやっぱりブラジル人のおれのほうが全然レベルが上でしたね。すぐにレギュラーになって、県大会とかに出て、けっこう活躍しました。フォワードもミッドフィルダーも何でもしました。点取り屋でした」
彼が高校2年生になった時には、その活躍が地元の新聞で紹介されたこともあったという。
来日当初はまったく理解できなかった日本語も、寮生活を送るうちにあっという間に覚えてしまった。
「日本は先輩・後輩の関係が厳しいですよね。だから、最初は敬語から覚えました。おれ、耳がいいんですね。目もいいですけど。外国語を覚えるのは得意なんですよ」
確かに、クリスチャンは誰に対してもそつのない敬語で話をする。のちに、多くの外国人が出入りする職場で働くようになってからも、英語・フランス語・スペイン語など、日常会話程度であればすぐに話せるようになった。
しかし、言葉に不自由しなくとも、知り合いが一人もいない環境であることに変わりはなく、また将来の見通しがあるわけでもない。
「部活のあと、超腹が減るじゃないですか。でも、寮に用意されている夕食はご飯と冷めた味噌汁、冷たくなったサンマの塩焼きとコロッケとかですよ。食事が全然口に合わなくて、最初は地獄でした。ブラジル時代は基本的に肉です。あっちは牛肉が安いんです。毎日肉を食べてました。それが、急にサンマ。毎日のように出るんです。これには本当にまいりましたね」
言葉のストレスは回避できていたものの、食事、日本独自の上下関係、厳しい門限や生活指導、そして母親に会えないストレスが次第に募っていった。
「それに、10代ですから、女の子に興味が出てきますよね。でも、毎日部活、部活で、女の子とデートする余裕なんてなかった」
高校2年生も終わりを迎える頃、両親が勤める工場が閉鎖。両親は新しい職場を求めて、“ブラジル人の街”として有名な静岡県浜松市へ転居し、自動車工場で働き始めた。
「それだけじゃないんですけど、色々嫌になって、寮を抜けだして浜松に向かいました」
寮生活を送る高校生が、たいしたカネを持っているわけもない。キセル乗車を繰り返しての脱走劇も、東京駅で駅員に捕まり終了した。
「両親と学校に連絡がいきました。両親がJRに料金を払う約束をして、なんとか浜松までたどり着いたんですが、会ったととたんに父親からめちゃくちゃ怒られましたね」
継父からは学校に戻るよう説得されたものの、クリスチャンにその気はなかった。当時のクリスチャンはストレスから隠れて酒を飲むようになり、サッカー部内でもたびたび問題を起こすようになっていた。
「頭にくる先輩をぶん殴ったり。監督に文句を言って練習を途中でやめて出て行っちゃったり。とにかくおれは縛られるのが苦手なんですよ」
それでも、試合に出れば彼の活躍は際立っていた。しかし、結局は青森の高校を中退。そのまま両親の家に居着いて、しばらくしてからは近隣のアイスクリーム工場で働くようになった。
「仕事が休みの時には、酒を飲んで遊びに行って。その頃からです。そういう生活を本格的にやるようになったのは。1ヵ月で15万円くらい貰えた給料もすぐに使っちゃう。まずは、クラブへ行って踊って、飲んで。女の子をナンパして。気づいたら翌朝、知らない場所に転がってる。そんな感じです。酒は好きっていうか、いったん飲み始めると止まらなくなるんですよ」
それからのクリスチャンは、今や行方すら知らない、アルコール依存症となって人生を棒に振った実父と同じ道のりを歩み始めることになる。