残された孤独に耐えられず、
両親が暮らす青森の田舎町へ
あらためて言うまでもなく、日本とブラジルの関係は極めて深い。日本からブラジルへの移民計画が始まったのは1908年。日本では、近代化とともに貧しい農家からはじき出される労働力が発生した一方、長きに渡る奴隷制のもとで大規模な農業が続いたブラジルでは、奴隷が解放されると慢性的に農業労働者が不足する状況が続いていた。両国のニーズは一致したため、日本からブラジルへの移民船は1973年まで両国を往復し続けていた。
ところが、日本が世界有数の経済大国として安定的な地位を獲得したことと相まって、ブラジルでも急激な近代化が始まると、人の流れは反転する。1990年、日本政府は入国管理法を改正。3世までの日系ブラジル人とその家族を無制限に受け入れることにしたため、それ以来、日系ブラジル人の来日者数が年々増加していった。クリスチャンの両親もまた、日本へと出稼ぎに向かった周囲の者たちを追いかける形で、日本行きを決めた。
「おれが15歳の時、地元の高校に入ったばかりの頃ですよ。両親が、おれを置いて日本に旅立ってしまったんです。おれは弟と一緒に母親のおばあちゃんの家に預けられました。すごく悲しかったね。おれ、すっごくお母さんっ子だったんですよ。だから、あの頃は暗かったです」
「どうして外国なんかに行っちゃったの?早く帰ってきてよ」。クリスチャンは祖母の家の電話を使って、毎晩のように母親に電話をかけた。しかし、高額な国際電話料金を心配して、母親は3回に1回くらいしか電話を取ってくれない。クリスチャンはイライラし、大好きだったサッカーも辞め、地元の不良たちと一緒に過ごすようになる。学校にも通わなくなっていた。
そんな息子の様子を祖母から聞いたクリスチャンの両親は、彼を来日させることにする。なけなしの貯金をはたいて、クリスチャンの渡航費用に充てた。
「当時は15歳ですよ。ただ寂しかっただけ。日本に来るのに何十万円のお金がかかるとか、関係なかった。そんなこと考える余裕もなかったですね。母親から『日本に来なさい』と言われた時は本当にうれしかった」
母親からの誘いを聞いたクリスチャンは、すぐに地元の高校を退学し、日本行きの飛行機に一人で乗り込んだ。
「サンパウロ時代は、ほんとに狭いエリアの中だけで生きてきました。ほかは全然知らない。夜遊びとか旅行とかもなかったですよ。15歳までずっと同じ街で、学校に通って、サッカーをして暮らしてきた。それがいきなり、海外です。それも地球の裏側。めちゃくちゃ遠くにある国ですよ。おれにとってはわけわかんない国(笑)。大興奮でしたね。当時はインターネットも今ほど普及してなかったし、日本がどういう国かなんてほとんど知らなかった。ただ、お父さんのような顔をした人がいっぱいいるんだろうな、くらいしか思わなかった」
クリスチャンの両親は、当時、青森県の田舎町にあった水産加工会社の工場で働いていた。
「成田空港に着いて、羽田へ向かうために東京に出ますよね。もう衝撃が走りましたね。なんてビッグ・シティなんだって。しかも、みんなキレイでオシャレな格好をしてる。走ってる車もキレイ。日本ってすごくリッチな国だなって思いました。まだ15歳の子どもだから、めちゃくちゃ興奮したよ」
ところが、両親が暮らす青森の町に着くと、目の前の風景は変わった。
「何もないんですよね。これが同じ日本なのって感じでした。超田舎。がっかりしましたよ」
しかし、母親との再会を果たしたクリスチャンの心は躍った。「お母さんはおれを見ると飛びついてきて、抱きしめてくれて、キスの雨。その様子を背後で無表情なお義父さんが見つめていました」。