伊藤忠商事の小林栄三前会長伊藤忠商事の小林栄三前会長 Photo by Michio Nakagawa

常務会の権限を明確にして
大胆な経営施策を実行可能に

 伊藤忠は、1971年にいすゞ、GMの提携を仲介して初めて総合商社として認められたようなもので、それまでは大阪から来た繊維商社にすぎなかった。

 売り上げは1兆円を超えていたし、戦前からの歴史のある会社ではあった。だが、GMのパートナーとなるまでは、関西発の一繊維商社のイメージから抜け出すことはできなかったのである。

 瀬島が伊藤忠で期待された役割は、繊維商社を総合商社らしくすることだった。彼がやったのは営業ではなく、組織作りだ。伸びていく組織に規律を与え、問題解決のシステムを作った。陸士、陸大で学んだ組織の運用法を伊藤忠に移植したことで、この仕事は元職業軍人にしかできなかった。

 底知れぬ人脈を使って調整を始めたのは土光の補佐として臨調委員を委嘱されてからであり、中曽根康弘政権(1982年~1987年)時代からだろう。伊藤忠の現役時代はあくまでスタッフ、裏方として経営者を支えている。

 瀬島が整備した組織作りのなかでとりわけ重要だったのは、次の決定だ。

「まず会社の実質的最高意思決定機関である常務会(代表取締役の常務以上で構成、のちに経営会議と改称した)の制度、運営を明確にすることからスタートした。ややもすれば各部門、各部は、ことにリスクを伴う案件では、何でも常務会に提議する風潮があった。

 常務会の基本的性格は、『多数決機関』なのか、『社長の決定を補佐する機関』なのか。この特定がまず問題の基本である。各種検討の結果、明確に、後者と想定した」(『幾山河』)

 社長が二代忠兵衛のようなオーナー社長であれば、性格付けをわざわざ決めなくとも、常務会、役員会は補佐機関に決まっている。役員全員が反対しても、「オレはやるんだ」と言ってしまえばそれが結論になる。

 ところが、サラリーマン社長の場合はそうはいかない。同僚のなかから抜擢された一人が社長に就任した場合、残りの全員が反対した議案を「それでもオレはやる」と言える人間は果たしているのか。

 この時、瀬島が提言して常務会の性格を決めたことは伊藤忠にとっては悪くなかった。オーナーでなくとも、人望があり、社内をグリップしている社長であれば、役員会を補佐機関として使うことができる。

 瀬島は後々のことまで考えてこのことを決めたわけではないだろうけれど、この決定があるため、伊藤忠の最高経営責任者は役員全員が反対しても、創造的な経営施策を実行に移すことができた。

 戦後六代目の社長だった丹羽宇一郎がバブル期に膨らんだ4000億円の不良債権、資産の処理をしたことは創造的な経営施策だ。

 現会長、岡藤が実行した朝型勤務への移行、亡くなった社員の子弟が大学院を出るまで教育費を負担することなども、必ずしも役員が全員一致したわけではなかっただろう。

 伊藤忠の経営トップはその気になればかなり大胆な経営施策を実行することができる。そういう組織形態になっている。