「よし、行ってこい!」
葛藤を抱えながら蛭間を送り出す

 早慶戦の直前、11月6日の金曜日のことだ。

「朝のアップをしているときでした。涙が止まらなくなってしまって。号泣です。もう4年生と練習できなくなると思った。4年は厳しく、そして優しく接してくれました。ベンチ入りできなかった4年生も裏方の仕事を懸命にやっていたし」

 この場面で、こういう男に打席が巡ってくる。

 投手交代時の投球練習で間ができた。小宮山は蛭間を呼び寄せて耳打ちした。

「どうするつもりだ?」

 その問いに、蛭間は少し間を置いて答えた。

「外のまっすぐに、踏み込んでいきます」

 このやりとりを、小宮山は早慶戦最大のポイントだと振り返る。

 スライダーを捨てるヒントを短い言葉に託すつもりだった。だが蛭間は自分のやるべきことを分かっている。そこで、こう言って蛭間の背中を押した。

「よし、行ってこい!」

 同時に、小宮山はずっと葛藤していた。

 蛭間が塁に出たとき、一・二塁か一・三塁となる。次の打者は9番の早川だ。

 ここで代打を出すかどうか。

 代打ならば3年生の福本翔だ。俊足の強打者。内野ゴロで一塁セーフになる可能性も高い。すると打順は1番金子銀佑につながる。2019年秋の早慶戦サヨナラ勝ちの殊勲者であり、20年春の早慶戦でもタイブレークに持ち込むヒットを放っている。同点、そして勝ち越しのチャンスだ。福本はすでに打席に立つ準備をしている。

 そして点が入ったならば、9回裏のことも考えなければいけない。

 最後の慶応の攻撃を、早川の左腕に託したい。背番号「10」をマウンドから降ろしたくない。代打を出した場合、ブルペンに残るのは2年生と1年生の2人。もっとも重要な3つのアウトを取ることができるだろうか。最強のライバルが全身全霊で点を取りにくる。強烈なプレッシャーを受けながらも腕を振り切ることができるだろうか。

 小宮山は腹を決めた。

 早川と心中する。

 早川を打席に立たせ、9回裏のマウンドを任せる。

 決断の中で、「蛭間がホームランを打てば、全部解決だな」との考えもよぎった。だがそれはあまりに虫がよすぎる……。

 そのときだった。