前身の女学校を
卒業した与謝野晶子
大阪府南部の堺市にある男女共学の府立高校だ。前身は高等女学校で、ルーツをさかのぼると校歴は150年近くになる。その伝統を引き継ぎ、文芸などで活躍した知名度の高い女性の卒業生が巣立っている。
歌人・作家の与謝野晶子がその筆頭だ。教科書にも出てくる歴史上の人物になっている。女性論、教育論などを中心とした論評でも知られ、社会思想家ともいえるだろう。歌集『みだれ髪』や詩の『君死にたまふこと勿(なか)れ』などが強く印象に残る。
堺県堺区(現在の大阪府堺市堺区)甲斐町の和菓子屋の娘として、1878年12月に生まれた。戸籍名は鳳(ほう)志やうだった。堺高等女学校のルーツとなった堺区立堺女学校に入学(すぐに堺区立堺女学校に移管)、1894年に補修科を卒業した。
『源氏物語』の現代語訳や、女性の真の生き方を求める評論活動、文化学院での教育の実践などの教育活動、日露戦争後に新聞や雑誌で展開した警世の文など、歌人だけにとどまらず幅広い分野で活躍した人物だ。
歌人の夫・寛(鉄幹)との出会いや渡欧体験によって広い視野を身に付けるとともに、12人の子どもを産み育てた体験がその背景にあったのだろう。
子どもは6男6女で、うち1人は里子に出した。次男・秀(東京・私立暁星学園卒)は外交官となりスペイン大使や、1964年東京五輪大会組織委員会事務総長などを務めた。
孫は総勢21人もいる。その内の1人が自民・民主両党の政権下で財務相など重要閣僚を務めた衆院議員の与謝野馨(東京・私立麻布高校卒、17年5月死去)だ。馨が残したHPによると、「4歳の時(42年)に祖母が亡くなった。2002年12月に孫たちが集合して多磨霊園(東京都府中市)にお墓参りをした」という。