写真 加藤昌人 |
ポスト「ポストモダン」時代の現代思想を再構築する、気鋭の論客である。
「左か右かの二分法でいえば、僕はサヨク。なぜなら、格差問題は若者の怠慢の結果だとか、道徳心を育めば犯罪が減るだとか、社会を問うときに、意識から始めない」
その論理アプローチは、事象に肉薄し続けたフランスの思想家、フーコーに範を取る。「無差別殺人が起きるたびに、治安の悪化が嘆かれるが、じつは終戦以降、殺人件数は著しく減少してきた。暴力のメカニズムを解明しようとするならば、なぜわれわれは人を殺さなくなったのか、という視点がむしろ正しい」。社会学より、社会科学であることになじむ。
左派ながら、ナショナリズムを肯定する。「国民のための国家という感情。では国民は誰のことを指すのか。血の継承か、言語の継承か、その両方か。僕は自分の仕事の道具であり、生存の条件である日本語の存在する空間が縮むことを憂う。外国語がいくら流暢でも、フランスの思想家、ジュリア・クリステバが言うように、無意識が存在するのは母国語だけだ」
言論への過信はない。「統治権力と結び付かない限り、社会を変えることはありえないし、期待もしていない。ただし、言語への責任感は持っている」。
パリの大学院に留学する前には、フリーター生活も経験した。論壇のアイロニーから距離を置いた、力みのない視線に、裸の社会が映る。
(『週刊ダイヤモンド』編集部 遠藤典子)
萱野稔人(Toshihito Kayano)●哲学者・思想家 1970年生まれ。パリ第10大学大学院哲学科博士課程修了。津田塾大学国際関係学科准教授。哲学・思想の研究を土台に、国家論、権力論、現代社会論を展開する。著書に『国家とはなにか』(以文社)、『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)、『権力の読みかた』(青土社)など。