2010年、テルモは戦略論の大家・マイケル・ポーター教授の名を冠したポーター賞を受賞した。これは、独自性のある優れた戦略を実践し、高い収益性を実現している企業に贈られるもので、カテーテル事業において、グローバルジャイアントの逆を張る戦略が評価された。この受賞を実質的に主導したのが、当時経営企画室長だった佐藤慎次郎社長である。見事に描かれたその事業戦略は、MBAホルダーであり、コンサルタント出身のキャリアならではのものだった。
しかし、佐藤氏によると、カテーテル市場での成功は必ずしも戦略の賜物ではなく、チャンスがめぐってきた時、その機を逃さなかったからだという。しかし、それだけではテルモがグローバルプレーヤーへと飛躍できた理由が説明できない。
今回のインタビューの中で、2つの成功要因が見えてきた。それは「ゲートウェイ」であり、「顧客エンゲージメント」である。ここに長年培った技術力が加わり、世界で独自のポジションを獲得することができた。だが、テルモはそこに安住してはいない。先進国の超高齢化により急増する慢性疾患との共生に加え、患者のQOL(quality of life)がより重視されるなど、医療のパラダイムシフトが加速する中で、テルモ流の「新しい医療」への挑戦が始まっている。
戦略ありきではなかった
グローバルメーカーへの軌跡
編集部(以下青文字):テルモは昨2021年、創業100周年を迎えました。世界の中でダントツに長寿企業が多い日本ですが、その多くは中小企業です。多産多死が当たり前のベンチャーのステージから、どのようにグローバルプレーヤーへと飛躍していったのでしょうか。
代表取締役社長CEO
佐藤慎次郎
SHINJIRO SATO 1960年東京都生まれ。1984年東京大学経済学部卒業後、東亜燃料工業(現ENEOS)に入社。1999年に朝日アーサーアンダーセン(現PwC Japan グループ)に移り、コンサルティング業務に従事した後、2004年テルモに入社。執行役員・経営企画室長、心臓血管カンパニープレジデント、上席執行役員、取締役常務執行役員を経て、2017年4月に代表取締役社長CEOに就任。カテーテル事業をてこに独自のポジションを築き、医療機器のグローバルメーカーとなった同社を、次なる成長ステージへと導く「新たな医療」への挑戦を進めている。
佐藤(以下略):テルモの始まりである赤線検温器株式会社は、第一次世界大戦の影響で輸入が途絶えた体温計を国産化するために、1921年に設立されました。発起人は医師らが中心となっていて、その中には新1000円札の顔になる「近代医学の父」北里柴三郎博士もいらっしゃいました。当社は、生まれながらに国民衛生を担い、人々の命と安全を守ることを使命としてきたといえるかもしれません。以来、およそ40年間、体温計一筋のモノカルチャー企業でした。
しかし1960年代、そんなテルモに最初のステージアップが訪れます。それは「事業の多角化」です。それまで注射器は使い回しが当たり前でした。注射器から感染するなど、一般社会では考えが及ばない時代です。しかしながら、今後医療が発展していくうえで医療の安全性は欠かせないとの思いから、ディスポーザブル(使い切り)製品の開発に着手しました。テルモは国内初の「ディスポーザブル注射器」の開発に成功し、その数年後には、使い勝手がよく、安全性に優れた輸血用血液バッグが開発されます。これらの製品が医療業界に受け入れられ、普及したことで、日本の医療現場での感染リスクは大きく減退しました。
この時、体温計、注射器、血液バッグの次に何を開発すべきなのか、いろいろな選択肢があったことでしょう。何しろ医療機器と一口に言っても、その種類は多岐にわたり、使われ方や製品寿命もまちまちです。そうした選択肢の中で、当時の経営者は、熟慮の末にディスポーザブル医療機器に絞りました。ただ、注射器も血液バッグも、発想の根底には「日本の医療の近代化」という目標があり、この大きなテーマに挑戦したことが、その後の事業の多角化の起点となりました。
第2のステージアップは、1980年代以降の、患者さんの体に負担が少ない「低侵襲治療への挑戦」です。ここでも選択肢は複数あり、特に力を入れたのがカテーテル分野でした。ただしその当時、カテーテル事業がここまで大きな花を咲かせるとは、誰も思ってもいなかったと思います。なぜなら、カテーテル技術は、ディスポーザブル医療機器の延長線上のものであり、「はたして、この技術をどう使おうか」というプロダクトアウトの発想から生まれた事業だったからです。
ですが、タイミングに恵まれました。血管内治療をはじめとする低侵襲治療が注目され、大きく進歩しようとしている時だったのです。我々にすれば、後発とはいえ、遅すぎもしないという絶好のタイミングであり、おかげで新しい医療トレンドの中に入っていくことができました。その中で試行錯誤しながら技術を磨き、次々と新しい製品を開発し、それを横展開していったのです。
いま申し上げたように、体温計からディスポーザブル医療機器、そして低侵襲治療機器へと事業は広がりましたが、振り返ってみると、「戦略ありき」ではなかった。いつの時代にも通底する「医療を通じて社会に貢献する」という企業理念があり、それを実直に実践したことで、現在のポジションがあります。
ディスポーザブル製品の開発や低侵襲治療への参入が製品軸での転機だとすれば、2000年代からの「事業のグローバル化」は、市場軸による第3のステージアップ、言わば相転移ではないかと。
そうですね。それまで国民衛生の向上を使命に掲げてきたテルモが、日本だけでなく世界の医療に貢献しようとして始まったのが、グローバル化です。海外進出は1970年代からでしたが、日本の製品をそのまま輸出する、もしくは海外工場で製造・販売するスタイルだったため、まだまだ道半ばでした。
そこで、これまでの海外戦略を見直して、本格的にクロスボーダーM&Aに打って出たのが2000年代以降です。当初は、テルモにはない技術、たとえば人工血管や脳コイルなどの技術を取得することに重きを置いていました。
ですが、2007年以降は、既存事業分野での買収にも着手します。その一つが、2011年に買収した輸血関連事業分野のグローバルプレーヤー、アメリカのカリディアンBCTです。同社のブランド、技術、オペレーションなどを最大限に活用したリバースインテグレーション(自社事業を被買収企業のブランドやシステムの傘下に統合する方法)が、テルモの血液関連事業の成長を大きく後押ししたのは間違いありません。さらに、2016年には3件の大型M&Aを行い、その後は資産買収などの新たな統合パターンを取り入れたりしました。
こうしていま、アメリカをはじめ各国市場において、開発から製造、販売、アフターサービスまで、バリューチェーンを現地で構築し、競合に勝てる製品やサービスを提供できるようになり、ローカルの経営能力も大きく進化しています。
以上、3つのステージからテルモの歩みを振り返ってみましたが、成功要因を挙げるならば、やはり時機を逃さなかったことでしょうか。医療分野に限らず、どのような事業領域にも変化の波が必ずやってきます。それを見逃さず、そして遅すぎも早すぎもしないタイミングで果敢に行動に移す。これも100年間の貴重な学びです。