二度目のガンも絶対に治る気がしていた
手術が終わって、先生は「食生活にさえ気を付けていれば、胃はもう大丈夫」って言ってくださいました。ただ、こういう商売なんで、落語会や講演のあとには必ず打ち上げがあるんです。催しの担当者が「また来年もやりましょう」と言ってくれたりもする大事な席なので、せっせとお付き合いしてました。
胃のほうは静かにしててくれていたんですけど、14年後に今度は喉頭ガンになりました。咳がコンコン止まらないから大学病院で検査したら、喉頭ガンのステージ2だったんです。
そのうち声が出なくなっちゃった。ガンって「こうすれば治る」っていう決まった治療法はないんですよね。放射線がいいのか抗ガン剤がいいのか、通院でいいのか入院するのかしないのか。
ぼくは噺家ですから、とにかく声を守りたかった。抗ガン剤治療だと髪の毛が抜けるって言うし、そうなるとテレビ映りがよくない。入院もしたくなかったから、通院で放射線治療を受けることにしたんです。
その治療法が効いてくれるかどうかは、やってみないとわかりませんが、絶対に治る気がしてましたね。
東京大空襲で育った町が焼野原に
二度もガンを患って、もっと落ち込んだり先行きが不安になってもよさそうなもんですけど、そうならなかった。ふたつ理由があって、ひとつはバカの天才だからです。
まだ起きてもいない事件を考えると、頭が疲れちゃう。「不安」を抱えてクヨクヨするのは、頭の無駄遣いです。毎日忙しくにぎやかに過ごして、パッと寝て次の日を迎える。それが、ぼくのリズムなんでしょうね。
もうひとつは、小学校1年生のときに東京大空襲を経験していること。忘れもしない昭和20年3月10日、3回目の東京大空襲でB29が290機も襲来して、東京の上空から爆弾を落としたんです。
ひと晩で10万人の方が亡くなりました。そりゃもう、生きた心地がしなかったし、友だちも知り合いもたくさん亡くなってます。その頃は毎晩のように空襲警報が鳴って、空をアメリカの爆撃機が飛び回ってた。東京のどこかが燃えていて、夜なのに空が明るかったんですよね。空襲のたびに、いっしょに住んでいるおばあちゃんの手を引いて、近くの小学校の防空壕に逃げ込んでいました。
狭くて真っ暗なところに大勢が片寄せ合って座って、上のほうで「ゴー」って音を出して飛んでいる爆撃機が行っちゃうのを待つ。今日は頭の上に焼夷弾が落ちてくるかもしれない。いつ死んでもおかしくないという恐怖と背中合わせだったし、子ども心に「明日死んじゃうのかな」という虚無感を抱えて生きてました。