源義経に敗れた木曽義仲に「粗暴なイメージ」が染みついた理由倶利伽羅峠の風景 Photo:PIXTA

現在放送中の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも注目を集めた武将、木曽義仲。同時代を生きた平清盛、源頼朝、義経らと比べると地味な印象があるかもしれないが、義仲の生涯は鮮烈で波瀾(はらん)万丈なものだった。また、時代劇などでは「粗暴」なキャラクターとして描かれることも多い義仲。なぜそのようなイメージが定着したのか。義仲の功績とその生涯について解説しよう。(歴史学者 濱田浩一郎)

「平家を都落ち」させた木曽義仲
頼朝・義経の陰に隠れたその功績とは

 平安時代末期の武将・木曽義仲と聞くと、皆さんはどのような人物をイメージするだろうか。同時代人である平清盛や源頼朝、義経と比べて幾分地味な印象を持っている人もいるかもしれない。しかし、義仲の功績や生涯は、彼らにも引けを取らないほど鮮烈で波瀾(はらん)万丈なものだと私は思う。

 まず、義仲の活躍で特筆すべきものは、何と言っても平家を都落ちさせたことだ。

 1180年、義仲は信州・木曽の山奥にいたにもかかわらず、以仁王の平家打倒の呼びかけに応じ、挙兵した。翌年には、横田河原の戦い(信濃国)で、越後国から攻めてきた平家方の城長茂を撃破している。

 その後、北陸へと進んだ義仲は、以仁王の遺児・北陸宮を擁立し、さらなる力を得る(1182年)。1183年には、富山県と石川県の境にある倶利伽羅峠の戦いで、平維盛率いる平家軍を破った。夜間に奇襲攻撃を仕掛けた義仲軍に平家軍は浮足立ち、壊滅していったという。