徳川家康は幼少時、人質に出されたり、望まぬ年上妻を押しつけられたり(同年説もあります)、その前半生は苦難の連続。

 豊臣秀吉の死後、1600年の関ヶ原の戦いで勝利して家康は権力を手に入れるものの、豊臣家には秀頼とその母・淀殿(浅井茶々)がいて、西日本では圧倒的な存在感を誇っていました。

 そんな豊臣氏の滅亡につながった大坂夏の陣が1615年4月、家康が死んだのはその翌年1616年4月です。時に75歳(数え。以下同)。

 徳川家康があと一年早く死んでいたら、秀吉がもう少し長く生きていたら、徳川幕府は成立しなかったでしょう。

 まさにタッチの差。

 家康がじじいになるまで生き延びたおかげで、15代250年以上に及ぶ徳川政権につながったわけです。

卑弥呼は、ばばあだった!?

 卑弥呼とは、中国の歴史書『三国志』(三世紀)魏書三十「東夷伝」の倭人の項目、いわゆる『魏志倭人伝』に出てくる倭の女王です。

 いや、卑弥呼って巫女でしょ?時代も時代だし、ばばあになるまで生きたという証拠があるの?と反論する向きもあるでしょう。

 もちろん確たる証拠はありません。卑弥呼の生きていた2~3世紀、日本にはまだ文字がありませんから、中国側の記録をもとに推測するしかないのです。

 この中国側の記録は複数あってそれぞれの記事は似ているものの、情報量に微妙に差があります。たとえば『魏志倭人伝』には、男王の統治が7、80年続き、倭国が乱れて卑弥呼が立てられたとありますが、『後漢書』(帝紀と列伝は五世紀)「東夷列伝」の倭の項目、いわゆる「倭国伝」では、「桓帝・霊帝のあいだ、倭国が大いに乱れ、かわるがわる攻撃し合い、長年、君主がいなかった。一女子があり、名を卑弥呼といい、年が長じても結婚せず」と、より具体的で、倭国の乱れたのは「桓帝・霊帝のあいだ」つまりは146年から189年ころ(本によっては146年から188年)であったことが分かります。