プラザ合意後の円高で
日本はバブル景気へ
岡藤正広が繊維部門の営業に出た1979年、アメリカで一冊の本が出た。
ハーバード大学の社会学者エズラ・ヴォーゲルが書いた『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』である。同書は1カ月遅れて日本で翻訳本が出て、最終的に70万部のベストセラーになった。
日本が高度成長した要因を分析したもので、アメリカよりも日本で話題になった。1980年代、日本人が自信を持ち、バブルに向かう前の気持ちを奮い立たせた本だった。
バブル景気は1986年の末から1991年2月までとされているが、『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』が人口に膾炙(かいしゃ)した80年代に入ってから好景気の予兆は始まっていた。
1983年にはアメリカ以外で初めてのディズニーランド、「東京ディズニーランド」が開園した。アメリカ文化のシンボル、ミッキーマウスが日本の客のために園内を案内する。かつて敗戦国だった事実は消し飛んでいた。日本人の生活は、アメリカ人並みになっていたのだった。
1985年4月、総理大臣の中曽根康弘は「国民1人当たり100ドルの外国製品を買いましょう」とテレビで訴えた。もっと金を使え、特に外貨を使えという政策である。
明治維新以来、貿易に携わってきた商社の人間は外貨獲得のためにさんざん苦労してきた。そんな彼らにとって、総理大臣が「ドルを増やさなくてもいい」と言明したことは、そのまま信用していいとは思えなかっただろう。
だが、半年後には状況が変わる。
9月、ニューヨークのプラザ・ホテルで先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議が開かれた。アメリカ、イギリス、西ドイツ(当時)、フランス、日本の財務大臣が集まり、資易不均衡を助長しているドル高を是正すべく、協調介入を決めた。プラザ合意である。
アメリカの真意は円高とマルク高を促進させることにあった。そうすればドイツと日本からのアメリカ向け輸出は減る。先進5カ国の中央銀行は市場で一斉にドルを売り、円を買った。売られたドルは下がり、買われた円は上がる。アメリカの考えた通り、円とドルのレートは円高が進み、1ドル=240円前後から3カ月後には200円を割るに至った。
日本経済は急速な円高に襲われ、輸出産業は打撃を受けた。一方で、ドル換算での日本の国民所得は増え、世界における日本の市場価値は高まっていった。