「コストパフォーマンス」という言葉が市民権を得てしばらく経つ。高コスパの料理店には行列ができるし、バーゲンセールには遠くから人が殺到する。しかし、その「パ」は本当にあなたにとっての「パ」なのだろうか? 経済学者の小島武仁氏や森永卓郎氏も賛辞を贈る新しい経済の入門書『お金のむこうに人がいる』。この本の中に、この「お買い得感」の正体を暴く3択問題がある。ぜひチャレンジしてみてほしい。(構成:編集部/今野良介)
【問題】
1万円の福袋を買ったら、高価そうなジャケットが入っていた。
あなたは得をしたのだろうか、損をしたのだろうか?
B. ジャケットの原価による
C. ジャケットを気にいるかどうかによる
定価のタグが幸せを隠す
割引セールが多くの人を魅了するのは、「良いものを安く買える」と思うからだ。「8割引」の値札を見ると、欲しくないものでも手にとって見てしまう。
ある年のお正月、あなたは1万円の福袋を買った。家に帰ってワクワクしながら袋を開けると、高そうなジャケットが1着入っていた。値札に書かれている定価はなんと20万円だった。ものすごい得をした気分になる。
でも、なぜか素直に喜べない。たしかに高そうなジャケットではあるが、いつもの自分なら買わないような派手な蛍光オレンジ色のジャケットだった。そうは言っても定価20万円の価値ある逸品だ。たまに袖を通すが、気分が乗らない。デザインも色も好みに合わない。とはいえもったいなくて捨てられず、クローゼットにしまわれている。
このジャケットは、あなたにとって本当に価値のあるものだろうか?
それを判断するためには、2つの価値に気づく必要がある。
「使うときの価値」と「売るときの価値」
僕たちは、2種類の価値を使い分けて暮らしている。
別の例で考えてみよう。あなたは、友人が最近開業したワインショップを訪れる。そこで1本1万円のワインをすすめられたあなたは、友人への開店祝いの気持ちも込めて、そのワインを2本購入した。
家に帰って、早速1本開けて飲んでみた。正直、期待はずれの味だった。渋くて飲みにくい。とはいえ1万円もする高級ワインだ。これが高いワインの味なのだろうと自分を納得させる。
しばらくしてワインショップを再び訪れると、そのワインは値上がりして3万円になっていた。しっかりした渋味が評価されて価格が上がっているらしい。
「あのとき1万円で買っておいてよかったでしょ?」
友人が恩着せがましく言ってきた。得した気もするけど、なんかモヤモヤする。残りの1本のワインの味が1万円の味から3万円の味にグレードアップしているわけではない。あのときの渋くて飲みにくい味のままだ。価格が上がってもワインはおいしくならない。価格とあなたの感じるおいしさは本来、関係がない。
ということは、1万円という元の価格も、あなたの感じるおいしさとは関係なさそうだ。この買い物で得をしたかどうかは、あなたの感じるワインのおいしさで決まる。支払った1万円という価格に込めた期待よりも、「あなたが」おいしいと感じれば、得をしたと感じられる。
僕たちが感じる価値の1つは、この「効用」と呼ばれる「使うときの価値」だ。
言い換えれば、自分がどれだけ満足したかということだ。
先ほどのオレンジのジャケットも、価格ではなく効用を考えるべきだった。福袋を購入した1万円という価格も、ジャケットの定価20万円も関係ない。原価も関係ない。『お金のむこうに人がいる』の第2話で詳しく書いたのでここでは省略するが、原価を突き詰めていくと0円になるからだ。
ジャケットを着たときにどんな効用を得るのかが、あなたにとっての価値を決める。
だから、今回の問題の正解は、AでもBでもない。Cだ。
C. ジャケットを気にいるかどうかによる
そして、効用は人によって違う。
「この服、着心地がいいんだよ」と言う人は、着心地がいいという効用を得ている。
「これ、かっこいいでしょ」と言う人は、自己表現できるという効用を得ている。
「このジャケット、20万円もするんだよね」と周りに価格を自慢する人もいるだろう。この人にとっての価値も、価格ではなく効用だ。「高い価格を他の人に自慢できる」という効用を20万円のジャケットから得ている。
「薬を使うときに感じる価値」は、もっとわかりやすい。薬の効用は、病気が治ることや症状が快方に向かうことだ。「毎日5万円の治療薬を飲んでいるんだよ」と喜んでいる人は見たことがない。僕たちは、多くのお金を使うことではなく、多くの効用を得ることで自分の生活を豊かなものにしている。どんなに価格が高くても、あなたにとっての効用がなければ意味がない。
そう思えれば、「1万円で買っておいてよかっただろ?」と得意げな顔をしていた友人の発言は見当違いだとわかる。ちょっと怒りすら覚えるかも知れない。
ところが。
その友人の次のひとことで、事態は一変する。
「もしよかったら、残っている1本のワインを3万円で買い取るよ」
あなたの怒りが急におさまる。1万円で買ったワインを3万円で買い取ってもらえば、2万円得することになるからだ。このとき、あなたのワインへの評価は「おいしくないワイン」から「3万円のワイン」に変わる。
これがもう1つの価値である、モノを「売るときの価値」。つまり「価格」だ。
モノを売る人にとっては、味がおいしいかまずいかなどの効用は関係ない。受け取るお金のことだけ考えればいいのだから、重要なのは価格になる。
つまり、価格とは、商売人にとっての価値だ。
そういう意味では、1万円の福袋のジャケットが気に入らなくても、誰かに高く売ることができれば、得することはありえる。だからもし、D「ジャケットがいくらで売れるかによる」という選択肢があれば、それも正解になりうる。
このように「効用」と「価格」という2種類の価値の存在が僕たちを惑わせる。
価格に潜む罠
生活を直接的に豊かにするのは、「使うときの価値」である効用だ。効用を増やせば生活は豊かになる。
問題は、この効用を測るのが難しいことだ。今日はカレーライスを無性に食べたいと思っていても、明日にはカレーライスよりも天ぷらそばを食べたいと思う。自分の中ですら変化する効用を、他人と共有することは困難だ。
それに比べて価格はわかりやすい。数字だけでモノの価値を表してくれる。だからこそ、社会全体の価値について考えるときなどの客観的な評価が必要な場合は、価格を価値として考える。「経済的価値」とか「資産価値」などは、すべて「価格」を意味している。生活を豊かにするのは効用のはずだけど、効用を測定することができないから、価格というモノサシでとりあえず代用しているのだ。
しかし、この客観的で便利なモノサシに慣れると、自分が感じる効用を見失ってしまう。1万円の価格のモノには、1万円に相当する効用があるような気がしてくる。
ここから、生産者と消費者のクビの締め合いが始まる。
テレビでも雑誌でもインターネットでも、会社の広告を見ない日はない。会社は、商品の良さを説明したり、有名人に商品を使ってもらったり、会社の良さをアピールしたりして、なるべく多くのお客さんに買ってもらうための宣伝活動をする。
隣の家で美味しいパンが売られていても、看板がなければ売られていることに気づけない。誰も買ってくれなければ、どんなにおいしいパンでも誰も幸せにすることができない。生活を豊かにする商品を幅広い人々に知ってもらうことは、社会全体の効用を増やすことにもつながる。宣伝活動は、悪いことであるはずがない。
ところが、マーケティングやブランディングという名の元に「価値の水増し」を行う人たちも存在する。商品の効用を高める努力をすることなく、高い価格を提示することで、それと相応の「価値」があることを消費者に信じ込ませるのだ。「価格のモノサシで価値を測っている消費者たちは、価格が高ければ高いほど価値があると思ってくれる」と彼らは踏んでいる。
着心地や快適さ、デザイン性を高めたジャケットを作らなくても、高価な値札さえつければいい。5000円のジャケットには5000円の価値しかないと思い、20万円のジャケットには20万円の価値があると信じてくれるのだから。「このジャケット、20万円するんだよね」と周りに自慢して喜んで買ってくれる。
20万円のジャケットなんてバカバカしいと思っている消費者も、バーゲンセールで8割引で売られていたら思わず足を止める。1万円の福袋に20万円のジャケットが入っていれば大喜びしてしまう。価格の罠にはまってしまうのだ。
価格のことばかり気にしていると、自分にとっての効用が二の次になる。「お買い得」の意味が、効用の高い商品を安く買うことではなく、価格の高い商品を安く買うことだけになる。
家電量販店の大型テレビの値札に「大特価12万9000円!(定価:20万円)」と書いてあればお買い得だと感じるだろう。一方、「大特価12万9000円!(定価:オープンプライス)」と定価が書いていないと、お買い得かどうか不安になる。大事なのは、元の価格ではないのに。その商品によって自分の生活がどれだけ豊かになるか、なのに。
これは非常に困った事態だ。消費者である僕たちが「定価が価値だ」と信じていると、生産者である僕たちがどんなに効用の高いモノを作っても「お買い得」だと思ってもらえない。
そうなると、生産者である僕たちが選ぶ道は2つしかない。作ることをやめるか、定価を上げて消費者をダマそうとするかだ。いずれにしても、効用の高い商品を作ろうとする意欲が削がれていく。
一人ひとりの消費者が、価格のモノサシを捨てて、自分にとっての効用を増やそうとしないと、生産者も消費者も幸せになれないのだ。(了)