実は国鉄もこれを分かっていた。国鉄諮問委員会は1963年に国鉄総裁に提出した「国鉄経営の在り方について」の中で、急増する輸送需要に追いつくためには年間3300億円の設備投資が必要で、このためには毎年膨大な借入金をしなければならず、1970年頃には借入金は2.4兆円に達するとして、「これは経営の完全破綻以外の何ものでもない」と結論付けている。

 実際、1970年度決算は1549億円の赤字で、負債は約2.6兆円と、ほぼ見積もり通りの結果となっており、その前年1969年から国鉄の財政再建計画がスタートしている。とはいえこの間の投資は、通勤地獄と称された首都圏主要路線の輸送力を抜本的に増強する「通勤五方面作戦」など、今日的に見ても不可欠のものであった。

 だが政府から補助を得られず、不足する資金を民間から高金利で調達したため利子負担が急激に増えた。その結果、収支は加速度的に悪化し、それをまた借金で穴埋めしたため長期債務が膨れ上がっていった。1977年に約9.4兆円だった長期債務残高はわずか10年で約25兆円まで増加したのである。この借金をどうにかしないことには、どのような改革を行おうとも経営再建は不可能だった。

 国鉄改革の根本は債務の処理にあった。具体的にはJRが返済可能な範囲で債務を継承し、政府の貸付の一部を返済免除。用地などの国鉄資産を売却し(これは結果的に失敗に終わった)、残りを税金で処理するという考え方だ、

 この結果、国鉄最後となる1986年度決算が約1.3兆円の経常損失だったのに対し、民営化初年度となる1987年度のJR7社(旅客6社及び貨物)の経常収支は計約1500億円の黒字となった。一見、劇的な民営化効果のようだが、これは東日本、西日本、東海に継承させる債務を調整し、北海道、四国、九州には経営安定基金という補助制度を設け、黒字になるように制度を構築したからで、黒字化するのは当然のことだった。国鉄末期には経営合理化の進展により、既に鉄道事業の収支は大幅に改善していたからだ。

 しかし、債務の免除や一般会計の付け替えを大蔵省に認めさせるには、二度と同じように国民負担を求めることがないよう、民営化という「けじめ」が不可欠だった。世論を受けて当初、民営化に否定的だった自民党、運輸省、国鉄当局も、やがて民営化までは受け入れざるを得ないと考えるようになったが、大きな論点となったのが「分割」であった。

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