分割民営化とは何だったのか。民営化の旗手であった葛西氏は何を考え、何を行ったのか。2007年に中央公論新社から発刊された著書『国鉄改革の真実―「宮廷革命」と「啓蒙運動」』を参照しつつ振り返ってみたい(特に記載のない場合は本書からの引用とする)。

経営悪化の国鉄改革により
労使関係は解体的出直し

 分割民営化を決定し実行した中曽根康弘元首相は後年のインタビューで「総評を崩壊させようと思った」と述べており、これを根拠に民営化そのものが「戦後政治の総決算」を標ぼうした中曽根氏による「謀略」だったという見方がある。

 総評(日本労働組合総評議会)とは、社会党の支持基盤である労働組合の全国中央組織であり、規模、影響力ともに中心的な存在だったのが「国鉄労働組合(国労)」だ。国労は分割民営化への対応をめぐって分裂。そして総評も分割民営化から2年後の1989年に日本労働組合総連合会(連合)へと発展的解消を遂げた。社会党は90年代に入って党勢を大きく後退させ、1996年に社会民主党に改称。小政党のまま現在に至る。

 結果的に国労・総評・社会党は敗北し、中曽根氏の狙い通りになったように見える。鈴木善幸内閣で行政管理庁長官に就任した中曽根氏は、1981年に第二次臨時行政調査会(第二臨調)を設置し、会長に前経団連会長の土光敏夫氏を指名した。中曽根氏が鈴木氏の後を継いで1982年に首相に就任すると、臨調の答申を自ら推進していくことになる。

 国鉄、電電公社、専売公社の民営化を企図した臨調を設置した時点から、労働運動において中心的な役割を担ったこれら公社の労組を弱体化させたいという思惑が中曽根氏の頭の隅にあったのかもしれない。しかし、そのためだけに国鉄民営化(三公社民営化)が進められたというのは針小棒大だろう。

 ただ葛西氏も前掲書で「職員局は東西冷戦体制を反映した政治的労働運動の呪縛から個々の社員を解き放ち、自律的に自分自身と家族の幸せを考えさせるための『啓蒙運動』を展開したのであった」と述べており、(少なくとも彼の中では)民営化と冷戦構造の転換は連続していたことになる。

 国鉄改革が労使関係の解体的出直しとイコールだったのは真実だ。なぜなら、国鉄の経営悪化の要因の一つが過剰な人員と人件費であり、その解決には人員の削減や転属が必須だったが、それは従来の労使関係では到底不可能なことだったからだ。