2010年12月にチュニジアで大規模な反政府デモが始まり、23年間続いた長期政権が崩壊した(ジャスミン革命)。その後、抗議活動は近隣諸国にも飛び火し、エジプトやリビアで政権が崩壊し、シリアでは政府軍と反政府組織の内戦が勃発した。

 この「アラブの春」が「SNSが世界を変える」という期待がもっとも高まった時期だが、それはわずか数年しかもたなかった。2016年の米大統領選で、ほとんどの専門家の予想に反して稀代のポピュリストであるドナルド・トランプが勝利すると、ロシアがSNSに大量のフェイクニュースを流したとの疑惑が報じられ、18年にはフェイスブックから8700万人ものユーザーの個人情報が流出し、それがトランプ陣営の選挙戦略に使われたと告発された。

 フェイスブックはなんとかこの危機を切り抜けたものの、21年には内部告発者によって数千ページにおよぶ内部文書が大手メディアに提供され、ヘイトスピーチへの対応の遅れや、インスタグラムが10代の少女に有害との調査結果を放置していたことなどがきびしく批判された。この混乱のなかで、社名が「メタ」に変更されている。

 ニューヨーク・タイムズの記者シーラ・フレンケルとセシリア・カンの『フェイスブックの失墜』(長尾莉紗、北川蒼訳、早川書房)は、全世界に30億のユーザーを抱えるプラットフォーマーが頂点から転落していく経緯を描いている。

 原題は“An Ugly Truth ; Inside Facebook’s Battle for Domination(醜い真実 フェイスブックの支配をめぐる闘いの内幕)”で、創業者でCEO(最高経営責任者)であるマーク・ザッカーバーグと、広告部門を率いて同社を躍進させたCOO(最高執行責任者)のシェリル・サンドバーグが中心人物だが、両者が暗闘していたというわけではない。

 ザッカーバーグはメタ(フェイスブック)の株式の13%を保有し、1株10票の種類株によって株主総会の議決権の6割を握っている。それに対してサンドバーグは、資産10億ドルといわれるものの、株式保有比率は0.5%程度に過ぎず、そもそもライバルになりようがない。サンドバーグは本書刊行後の22年6月、同年秋にCOOを退任する意向を表明した。

 フェイスブック内部の権力闘争は興味深いものの、ここでは「表現の自由」と「フェイクニュース対策」の隘路でSNSの巨人がどのように翻弄されたかを見てみたい。

フェイスブックは編集権をもつメディア企業ではなく、「ユーザーがアイデアを投稿する「場」を提供しているだけのテクノロジー企業」

 2015年12月、共和党の大統領予備選挙に出馬したドナルド・トランプが、「ムスリムの入国を完全に禁止する」と述べたことで、フェイスブックは窮地に立たされた。フェイスブックにアップされたこの演説の動画はすぐに10万件以上の「いいね!」がつき、1万4000回もシェアされたのだ。

 この事態を受けて幹部たちは、「政治的言論は「ニュース性」の有無という基準で保護できる」という合意に達した。「一般の人々は、選挙に立候補した人間の意見をそのまま聞いてその候補者に対する自分の意見を持つ権利があるため、政治的言論は特別な保護に値する」というのだ。

 フェイスブックは10年ちかくにわたって、毎週末に「質疑応答セッション(Q&A)」と呼ばれる非公式の全社会議を行なっており、社員からの質問を投票にかけ、得票数の多い質問にザッカーバーグが答えることになっていた。「イスラム教徒の入国禁止を主張するトランプ陣営のビデオを削除する義務があると思っていますか」という質問に対して、ザッカーバーグはこう答えた。

「難しい問題です。でも、私は表現の自由を強く信じています。この投稿を削除するのは行き過ぎた行為だと考えています」

 ザッカーバーグは、合衆国憲法修正第一条に明記されている「言論の自由の保護」はきわめて重要で、フェイスブックは「ユーザーが知識を得て理解を深めるために、さまざまな意見やアイデアが飛び交う場」であるべきだと考えていた。

 トランプが共和党の大統領候補になると社員たちの不満と不安はさらに高まり、「トランプ大統領が誕生するのを防ぐために、フェイスブックが果たすべき責任はなんでしょうか」という質問が社員たちからじゅうぶんな支持を集めた。

 広報チームはこの質問に正面から答えず、「フェイスブックの言論の自由に対する真剣な取り組みと、民主主義社会において同社が果たしてきた役割」を強調し、「どの候補者の活動も等しく支援するのがフェイスブックの大統領選挙に対する姿勢だ」と説明するようザッカーバーグにアドバイスした。このときまでは、フェイスブックは編集権をもつメディア企業ではなく、「ユーザーがアイデアを投稿する「場」を提供しているだけのテクノロジー企業」だという理屈が通用したのだ。

「虚偽のニュースはフェイスブックのルールに抵触しない」

 トランプとヒラリー・クリントンの大統領選が本格化すると、「ビル・クリントンが婚外子をもうけた」という類の虚偽のニュースがフェイスブックのニュースフィードにあふれた。だがこの問題を相談した社員は、「虚偽のニュースはフェイスブックのルールに抵触しない」と告げられただけだった。

フェイスブックが翻弄された「表現の自由」と「フェイクニュース対策」は、「公益」と「私益」という両立が難しい二律背反のビジネスモデルのジレンマイラスト:阿部モノ / PIXTA(ピクスタ)

「人々がフェイスブックを開くとホームページのトップにまったくのフェイクニュースが表示されていると知っていても、私たちには何もできないと言われつづけました。誰でもシェアしたいものを制限なくシェアできたのです」と、ニュースフィードの元担当者は当時を振り返った。

 2016年6月18日、ニュースフィードの開発にも携わった幹部の一人アンドリュー・ボズワース(ボズ)が「ワークプレース」グループのひとつに、ユーザーに対するフェイスブックの責任についての社内メモを投稿した。

「私たちは人々をつなぐ。それが使命です。だからこそ、私たちが社の成長のために行なっている仕事はすべて正当化されるのです。多少疑わしい連絡先でもユーザーのアカウントに登録させ、ユーザーが友達から検索されるようにあいまいな表現を使い、より多くのコミュニケーションを生み出すためにあらゆる手を尽くす。(略)すべてが正しいことなのです」とボズは書いた。

「(略)いじめに遭った誰かの命を奪うことになるかもしれません。私たちのツールを使ったテロで誰かが命を落とすかもしれません。それでも私たちは人と人をつなぐのです。私たちの醜い真実は、人と人をつなぐ価値を深く信じているからこそ、より多くの人をより頻繁につなぐためなら何であってもよき行為とみなされるということです」この投稿のタイトルは、“The Ugly(醜いもの)”だった。

 11月9日、トランプが勝利するとフェイスブックは大きな困難に直面した。今後、偽情報がサイト内に氾濫したことを非難されるのは避けられず、トランプ政権ともうまくつきあっていかなくてはならなかった。フェイスブックはワシントンDCに大規模なロビイストの事務所を立ち上げた。

 ザッカーバーグはインタビューで大統領選への影響を問われ、「ちょっとフェイクニュースを見ただけの人が自分の投票行動を決めるなどという主張は、まともな共感能力があればできないことだと私は思います」と弁明した。