「監督と部員の距離感も縮まります。小宮山は監督4年目を迎えて、存在が板についてきた。当初からの姿勢はブレていない。学生相手に妥協はしなかった。一方で1年目から、彼なりの細かい配慮をしていた。それを学生の側が読み取れないところも多かった。畏怖や遠慮もあったんでしょうね。それこそが距離感。それがここへきて、ぐっと縮まったんじゃないかな」
小宮山監督がもたらした
「チームの一体感」
徳武は1999年から東伏見の安部球場に足を運び、後輩の打撃を見てきた。
「今の4年生は小宮山とスタートが一緒。私に言わせれば、小宮山も早稲田の監督としての勉強を一緒にしてきた。お互い、よく勉強してきたと思います。心が通い合ってきた、とでもいうのかな。主将の中川と蛭間、学生コーチの冨永、横山、齋藤の息も合っている」
小宮山の監督就任当時の口癖は「我慢、我慢」。「早稲田大野球部のあるべき姿に戻す」をスローガンに母校に戻った彼には、当時の部員たちの至らなさが見えてしまう。だがそれを細かく指摘せずに我慢。本人の自覚を促すことに徹してきた。
そんな監督と部員たちの関係性を、徳武はずっと見守ってきたのだった。
チームに一体感が生まれるのは容易なことではない。徳武は自らの現役時代のことを懐かしそうに話した。
「早慶6連戦の時にも、部員の心が通い合っていた。1日の休みを挟んだとき、ベンチ入りできなかった4年生が朝からグラウンド整備を買って出た。練習でイレギュラーバウンドでもして、野手がケガでもしたら大変だ――そんな気持ちからです」
慶応に勝つために、チームが一丸となったのである。お互いに死ぬほど練習してきている精鋭たちが神宮で対戦する。勝負はこういうところで決まるのだと思わざるを得ない。
22年の春季リーグ戦が終わったとき、「南魚沼合宿には4年生を全員連れて行きたい」と小宮山監督は幹部に進言した。一度も合宿を経験せずに卒業する部員も出てきてしまい、それではあんまりだという気持ちもあった。しかしベンチ入りの当落上にいる4年生は東京に残って練習する選択をいとわず、「合宿メンバーは実力で選んでほしい」と申し出たのである。監督はその意をくんだ。
夏山の天候は変わりやすい。米どころの南魚沼は慈雨に恵まれる。
8月18日、締めくくりに予定されていた作新学院大とのオープン戦は中止。朝から篠突く雨が降り、試合開始時刻の正午の予報も雨。対戦相手は早朝に栃木県宇都宮市を立たねばならず、やむを得ない判断となった。
ところが、11時を過ぎたあたりから雨は止み、晴れ間さえ見えてきた。球場グラウンドの水はけの良さは驚異的で、雨さえ上がれば練習できる。
そこで冒頭の「特打ち」が始まったのだった。
天候などによって予定が二転三転する。そこにどう対応するか。さながら、野球のゲームの展開である。
「試合、できましたね」と言う監督の表情も晴れやかだった。(文中敬称略)
1965年千葉県生まれ。早大4年時には79代主将。90年ドラフト1位でロッテ入団。横浜を経て02年にはニューヨーク・メッツでプレーし、千葉ロッテに復帰して09年引退。野球評論家として活躍する一方で12年より3年間、早大特別コーチを務める。2019年、早大第20代監督就任。