河合は元々、農商務省で米価を担当する官僚だったが、18年の米騒動の責任を取って幹部が辞職する中、河合も農商務省を去る。同じく農商務省出身の郷誠之助から誘われ、東京株式取引所(現東京証券取引所)に入るも、20年3月15日の歴史的暴落に見舞われる。このとき河合はちょうどヨーロッパに外遊中で、インタビューでは「帰国の途中、香港で日本の株式市場が恐慌で大暴落しているという電報を受け取った」と語っている。
23年の関東大震災の翌年、東株を辞した河合は、次に日華生命保険(後の第百生命保険)に転身する。引き続き河合は郷と親交を深めており、郷が主宰していた若手財界人の勉強会「番町会」に参加していたが、この番町会が帝国人造絹絲(帝人)の株売買を巡って贈収賄に関わっていたとの疑惑が持ち上がる。疑惑を指摘し、舌鋒鋭く政財界の癒着を糾弾したのは、鐘淵紡績(現カネボウ化粧品)社長や政治家を経て、福沢諭吉が創刊した日刊新聞「時事新報」の社長をしていた武藤山治である。河合ら番町会メンバーは逮捕され投獄されるが、200日後、起訴された全員が無罪となる。事件は、当時の斎藤実内閣を倒す目的ででっち上げられた可能性が高い。
その後、河合は終戦直後の幣原喜重郎内閣で農林技官を務めた後、貴族院議員に勅任され、第1次吉田茂内閣で厚生大臣となった。また、47年には経営不振だった小松製作所の社長に就任。見事に再建を果たし、同社の中興の祖としても知られている。
インタビューの中で河合は、「昔の連中はものを見るにも、常に大所高所に立っていた。つまり、視野が広かった。財界というところは、時に大所に立って大きくものを見る必要がある。その点、現在の財界人には、なにか物足らぬ気がせぬでもない」と語っている。河合ほどの経験をもってすれば、確かに“戦後派”の経営者は小粒に見えたのかもしれない。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)
渋沢栄一が最も活躍し
財閥が競争し合った時代
ダイヤモンド社ができた大正2年ごろは、自由主義経済の絢爛たる時代で、渋沢栄一が最も活躍した時代だった。
当時の経済界は、この渋沢、三井、三菱、住友、古河、大倉、安田、浅野というような財閥、半財閥が覇を競い、お互いに競争し合った時代である。
渋沢栄一を筆頭に益田孝、木村久寿弥太、郷誠之助、井上準之助、池田成彬、鮎川義介などといった一騎当千の猛者連中が、創意工夫をこらして、お互いに戦った時代だ。現在流に言えば、技術革新により次々と新商品が生まれ、経営者の手腕いかんにより、企業はいくらでも大きく伸びることができたのである。今にして思えば、最も面白い頃だった。