かつては池上線を
都心へのバイパスにする構想も

 破綻状態の池上電気鉄道であったが、関東大震災を経て東京南西部の住宅化が加速していたこともあり、東京川崎財閥が経営を引き継ぐことになった。財閥の資金が投じられたことで池上線はようやく郊外電鉄としての道を歩み始める。

 手始めに既設線の複線化を進め、1927年には路線を大崎広小路まで延伸。1928年6月に五反田駅乗り入れを果たした。池上線五反田駅が高架線で山手線をまたぐ構造になっているのは当時、五反田から白金方面への延伸計画があったためだ。また1929年12月には五反田駅併設の2階建てビルに老舗百貨店「白木屋」を誘致しているが、これは東急や東武に先駆けた関東初のターミナルデパートであった。

 意欲的な投資を続けた川崎財閥だが、目蒲線に封じ込められた格好の池上電気鉄道には事業拡大の余地が少なかった。そこで雪が谷大塚から分岐して国分寺に至る新線の免許を取得し、1928年10月に雪が谷大塚~新奥沢(1935年廃止)間を開業させるなど、目黒蒲田電鉄の営業エリアに割って入ろうという積極姿勢を見せた。

 対立関係になった池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄であるが、狭いエリアで競合しても利益が少ない。そこで目黒蒲田電鉄から買収を打診し、鉄道事業への関心を失いつつあった川崎財閥はこれを承諾。1934年に目黒蒲田電鉄に吸収合併された。同社は1939年、同系企業の東京横浜電鉄(現在の東急東横線)と合併し、1942年に社名を東京急行電鉄(東急)に改めた。こうして東急池上線となり、現在に至る。

 目黒線と東急多摩川線に分割された目蒲線、横浜~桜木町間が廃止された東横線、戦後に新線として建設された田園都市線、田園都市線に乗り入れた大井町線といったように、東急の各路線は時代ごとに大きく姿を変えてきた。しかし池上線だけは(時に改善が置き去りにされていると批判を受けながらも)その姿を大きく変えることなく走り続けてきた。

 池上線にも変身のチャンスがなかったわけではない。1960年代には田園都市線を池上線経由で都営三田線、東武東上線に直通させる構想があったが、結局、田園都市線は半蔵門線に乗り入れることになり破談となった。

 もし実現していたら池上線は都心へのバイパスとなり、その性格は全く異なったものになっていただろう。やはり池上線は、蒲田~五反田間をコトコト走るのが似合っている。