早とちりや事実誤認といった「思考のエラー」は、誰にでも起こりうる。だからこそ、「情報をいかに正しく認識し、答えを出せるか」で差がつく。そのためには「遅く考える」ことが必要だ――そう説く一冊が、哲学者の植原亮氏による新刊『遅考術』だ。
私たちの日常のなかで、「遅く考えるスキル」がとりわけ大きな意味を持つのが「医療情報」を収集するときだ。人はなぜ、医療にまつわるデマや似非科学にやすやすと騙されてしまうのだろうか? 
今回は、『すばらしい人体』の著者であり、外科医けいゆうとしてネット上で精力的に医療情報の発信を行う山本健人氏をゲストに迎え、「歴史を学ぶ意義」について植原氏と語り合ってもらった。

遅考術Photo: Adobe Stock

「歴史に学ぶ」意義を考える

――対談の初回では、『遅考術』と『すばらしい人体』の共通点として、植原先生が「人類が営々と蓄積してきた知識の広がりを示そうとしていること」を挙げられました。哲学も医学も、先人から受け継いだ知識の積み重ねで成り立っている学問です。革新的なものがもてはやされがちな現代において、古くから続いているものを学ぶ意義とは何でしょうか?

山本健人(以下、山本):医学について歴史的事例を学ぶことが重要だと思うのは、ヒポクラテスの時代から二千数百年続いてきたとされる歴史のなかで、必ずしも医学は右肩上がりに発展してきたわけではないからです。

どちらかというと、長い時間をかけてじりじりと漸進し、19世紀や20世紀に入ってから急激に進歩している。たとえば、抗生物質ができたのも20世紀に入ってからです。それまでどうやって感染症を治療していたのか、驚くレベルですよね。

伝染する病気を手洗いによって防ぐという概念を初めて唱えたのも、19世紀ハンガリーのセンメルヴェイスという人でした。しかし、彼の主張は当時の医学界にはまったく受け入れられず、激しい批判を浴びた末に、センメルヴェイスは精神疾患に陥ってしまいます。

19世紀というとそう遠くない昔のように思えますが、それでも衛生に対する理解はその程度のものだったのです。

つまり、いま当たり前のように行われている医療や、当たり前のように普及している知識が、「当たり前」になったのはつい最近のことなのです。

医療にかかわる者としては、自分たちのほんの少し前の世代の医師や研究者たちの仕事が、今日の医療を支えているという事実に対して敬意を持つことが必要だと考えます。

それが、自分の仕事に対する謙虚さにつながるからです。

「巨人の肩」に立ってものごとを見通す

植原亮:医学から「科学一般」あるいは「学習全般」へと範囲を広げた場合、歴史的事例を学ぶことの重要性はどこにあると山本先生はお考えになりますか?

山本:「科学一般」ということであれば、自然科学の領域は実験とその検証の積み重ねで発展していくわけですが、そのなかで「かつて当たり前とされていたことが、もはや当たり前ではなくなった」という現象も、何度となく繰り返されてきました

したがって、いま当たり前とされているようなことでも、10年、20年先にはひっくり返されている可能性がある。その認識を持てるようになることが、歴史を知ることの意味なのではないかと思います。

私たち医療従事者は、よく「ベストアベイラブルエビデンス(best available evidence)」という言葉を使います。現時点で手に入るもっとも良いエビデンス――すなわち、普遍性があるわけではなく、いまの段階で手に入る材料を使って導いた最良のエビデンスという意味ですね。

しかし、もっと材料が増えたなら、別のエビデンスが導かれるかもしれない。そういう謙虚さは常に必要だと思います。

さらに広い範囲で、「学問全般」となったときは、「巨人の肩の上に立つ」というニュートンの有名な言葉がありますが、いま私たちが学んでいることは、先人たちが築き上げてきた土台=巨人に支えられているものです。

そのことを軽視して、自分の直観や経験など、非常に浅い知識で何かの結論を導いたりするのはとても危険なことです。先人たちが築き上げてきたものをきちんと学んで初めて、新たな発見や、誰かの役に立つようなアイディアも生まれるのだと思います。

その意味で、歴史を学ぶということは、学ぶこと自体の大切さを知ることにつながるのではないでしょうか。

植原 亮(うえはら・りょう)

1978年埼玉県に生まれる。2008年東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。博士(学術、2011年)。現在、関西大学総合情報学部教授。専門は科学哲学だが、理論的な考察だけでなく、それを応用した教育実践や著述活動にも積極的に取り組んでいる。
主な著書に『思考力改善ドリル』(勁草書房、2020年)、『自然主義入門』(勁草書房、2017年)、『実在論と知識の自然化』(勁草書房、2013年)、『生命倫理と医療倫理 第3版』(共著、金芳堂、2014年)、『道徳の神経哲学』(共著、新曜社、2012年)、『脳神経科学リテラシー』(共著、勁草書房、2010年)、『脳神経倫理学の展望』(共著、勁草書房、2008年)など。訳書にT・クレイン『心の哲学』(勁草書房、2010年)、P・S・チャーチランド『脳がつくる倫理』(共訳、化学同人、2013年)などがある。

山本健人(やまもと・たけひと)
2010年、京都大学医学部卒業。博士(医学)

外科専門医、消化器病専門医、消化器外科専門医、感染症専門医、がん治療認定医など。運営する医療情報サイト「外科医の視点」は開設3年で1000万ページビューを超える。Yahoo!ニュース個人、時事メディカルなどのウェブメディアで定期連載。Twitter(外科医けいゆう)アカウント、フォロワー10万人超。著書に16万部突破のベストセラー『すばらしい人体』(ダイヤモンド社)、『医者が教える正しい病院のかかり方』『がんと癌は違います~知っているようで知らない医学の言葉55』(以上、幻冬舎)、『医者と病院をうまく使い倒す34の心得』(KADOKAWA)、『もったいない患者対応』(じほう)ほか多数。
Twitterアカウント https://twitter.com/keiyou30
公式サイト https://keiyouwhite.com