猪木さんは晩年、馬場さんとの思い出を聞かれると「仲は良かったですよ。(犬猿の仲というのは)まわりが言ってるだけの話ですから」と言っていた。だが、当時は“仲がいい”という簡単な言葉じゃ言い表せない複雑な感情が馬場さんに対してあったと思う。その馬場さんの弟子で、7つも年が下の天龍源一郎が東京ドームでアントニオ猪木と戦うなんて“顔じゃないよ、アンちゃん”という思いを抱くのも当然だろう。

 おまけにあの当時の猪木さんは政治活動もされていて、レスラーとしての衰えもささやかれていた。ここは一発カマしてやるかと思ったのが、あのスリーパーや脱臼に込められていた。そんな気がする。

最後まで“アントニオ猪木”を貫いた強さ

 そんな猪木さんが、この原稿をしたためている最中の10月1日に亡くなった。79歳だった。この2年あまり、全身性アミロイドーシスという難病におかされて、何度も死の淵をさまよったと言っていたけれど、そのたびに不屈の魂で生還してこられた。

 猪木さんは亡くなる直前まで動画配信やNHKのドキュメンタリーで難病と闘い、衰弱していく自分さらけ出して、多くの人びとに元気と勇気を与え続けてきた。

 それを見て、俺もガッツをもらった。やせ衰えて、それでも俺は頑張って生きいくというメッセージを発信し続けた猪木さんはやっぱりすごい人だとつくづく思わされた。

 もしも、アントニオ猪木という人がいなかったら、馬場さんが亡くなった時点でプロレスという文化は事実上、なくなっていたと思う。名前だけ残って、こじんまりプロレスもどきをやっていたかもしれない。だけど、アントニオ猪木がいたから今日までプロレスは伝統文化のような形で、70年を超える歴史を紡(つむ)ぐことができた。

 そんな猪木さんが亡くなられたいま、プロレスというものが世間からどういうふうに見られていくのか……正直言えば俺はちょっと予想がつかない。

 それに心情的なことを綴らせてもらえば、本当に寂しい。猪木さんが亡くなる前日には親友の楽ちゃん(三遊亭円楽)が逝き、6月には妻のまき代も逝ってしまった。