知識人が全国で触れ回っていた「優生思想」

 実はこの法律ができる15年くらい前、日本では「優生思想」が空前の大ブームとなっていた。さまざまな知識人が「日本の未来のためには、障害者や犯罪者は子孫を残すべきではない」と主張をしていた。

 その論客の代表が、「朝日新聞社」の副社長だった、下村宏氏だ。

 逓信省の役人としてベルギー留学後、台湾総督府勤務からマスコミに転職した下村氏は、今でいうところの、“テレビ番組に出演する文化人コメンテーター”のはしりのような存在だった。

 ラジオ出演をしたり、全国を回って「日本民族の将来」という題目で講演を行い、国際情勢、そして「日本の危機」について説いて回った。そんな下村氏が、これからの日本で最も重要だと主張していたのが「優生思想」だ。1933年に児童養護協会が出した「児童を護る」の中で、こう持論を展開している。

「私は今日日本の国策の基本はどこに置くかといへば、日本の人種改良だらうと思ひます。この點から見ますると、どうも日本の人種改良といふ運動はまだ極めて微々たるものである。それでは一體その他の改良といふことは日本ではやらんのかといへば、人種改良の方は存外無関心であるが、馬匹改良はやつて居る。豚もだんだん良い豚にする。牛も良い牛にする。牛乳の余計出る乳牛を仕入れる」(P.8)

 犯罪者や障害者が子孫を増やしていくと、やがて日本人全体が劣化していくので、そういう人々は「断種」するのがベストな選択だというわけだ。このような「国策」を唱えていた下村氏は1937年に貴族院議員になり、その3年後に政府は「優生保護法」の前身となる「国民優生法」を成立させる。「人種改良を国策に」と主張していた下村氏が、この法律の成立に大きな役割を果たしたことは容易に想像できよう。

 ちなみに、下村氏はその後、内閣情報局総裁となり「宣伝」を担当して玉音放送にも関わり、戦後はNHKの会長になった。

 そして、ここからが大事なポイントだが、このような「優生思想を求めるムード」は戦後もしっかりと受け継がれたということだ。アメリカに敗れて新しい憲法ができたからといって、急に日本人の意識がガラリと変わることなどありえない。特に1948年くらいならば、まだ多くの国民は戦時中の人権意識を引きずっている。15年前に「日本の未来のためには、障害者や犯罪者は子孫を残すべきではない」という下村氏たち知識人のラジオや講演を聞いて「そうだ、そうだ」とうなずいていた人たちも当時まだまだ現役だ。

 そういう世論がベースにあったので、「優生保護法」のような非人道的な法律もすんなりと受け入れられてしまったのである。