航空隊戦術学校で研究されていたのは、精密爆撃のはずだった。では、焼夷弾についての研究は、いつから、どのように進められていたのだろうか。

 本格的な研究に乗り出したのは、1943年に入ってからだった。アーノルドら航空軍は、早くから焼夷弾に目を付け、日本への空爆で活用方法を探っていた。そのために、焼夷弾の有効性を確かめる実験まで行っていたのだ。焼夷弾爆撃の研究には、焼夷弾を製造する石油会社や化学者、さらには火災保険の専門家らが協力していた。例えば、戦争前に日本で営業していた保険会社からは、日本の市街地の火災情報を提供してもらっていた。

 焼夷弾爆撃の実験場は、ユタ州ダグウェイに広がる砂漠地帯にあった。そこに、日本の下町の住宅街を建設していたのだ。街並みは、通りの幅、建物の距離、家の寸法、建築木材、さらには住宅の中に置かれている家具や畳に至るまで、東京と全く同じものを再現する徹底ぶりだった。この巨大な“東京の模型”を、わざわざ実験のためだけに作りあげていたのだ。

 当時の実験映像が残されていた。一機の爆撃機が飛来し、無数の焼夷弾を投下する。住宅の屋根を突き破り、一階部分に着弾すると、たちまち炎が立ち上った。着火したゼリー状のガソリンが、まるで生き物のようにピョンピョンと跳ね上がり、広い範囲に飛び散る。木造家屋は瞬く間に燃え上がり、隣家へ次々と延焼していく。ゴオゴオと炎を上げて燃える住宅街は、やがてバラバラと崩れ去った。航空軍は、こうした実験を繰り返し行った。焼夷弾は、どの程度の火災を引き起こすことができるのか。最適な投下場所は、どこなのか。消火活動を妨げるために、殺傷能力の高い爆弾と組み合わせるべきなのか。焼夷弾と高性能爆弾の比率は、どの程度が最適か。実験で得られたデータを分析し、最も効果的な焼夷弾爆撃の方法を導きだそうとしていた。「日本焼夷弾空爆データ」は、その研究の成果をまとめあげたものだった。

米軍幹部も実は
「野蛮な戦争」と自認していた

 精密爆撃を掲げる裏で、焼夷弾による無差別爆撃を準備していたアーノルドは、1943年当時、どのような考えをもっていたのか。決して大っぴらに公言することがなかった胸の内を、部下への手紙に記している。

「これは野蛮な戦争であり、敵の国民に甚大な被害と死をもたらすことで、自らの政府に戦争中止を要求させるのである。一般市民の一部が死ぬかもしれないという理由だけで手心を加えるわけにはいかない」

 側近だったバーニー・ガイルズも、隠されていた航空軍の狙いを証言している。

「一番の目的は、人口の中心を破壊することだった。それについては、決して公表することはなかった。しかし、それが真の目的だ。それは抵抗する者に対する爆撃だった。我々は日本に降伏してほしかったのだ。従わなければ、人口密集地が破壊されることになる」(肉声テープより)