縄文時代に南方からきた民族が「原日本人」であり、弥生時代には朝鮮半島から北方系の人たちがやってきて、混血となっていった――。義務教育で当たり前に習うことだが、最新の研究によれば不自然な点も見つかっている。宇山卓栄『世界「民族」全史 衝突と融合の人類5000年史』(日本実業出版社)より一部を抜粋・編集し、最新の事実をお届けする。
本来、縄文人と弥生人に
分断はない
近年、遺伝子学の発達によって、われわれ日本人のルーツが明らかになるとともに、それまで有力視されていた学説が覆されています。
学校教育で、われわれは古代日本における縄文時代と弥生時代の区分を最初に習います。稲作がなかった時代が縄文時代、稲作が導入された時代が弥生時代であるという区分概念とともに、半島から渡来人がやって来て、弥生時代が拓かれたということを叩き込まれるのです。
そして、教科書や資料集の図版では、縄文人の顔と弥生人の顔の対比がビジュアルで示されます。太眉で目が大きく、厚唇で濃い南方系の顔が縄文人。細眉、一重瞼の細い目、薄唇で薄い北方系の顔が弥生人。しかし、この区分にはまったく根拠はなく、巧妙な印象操作を誘発するものでしかありません。
日本全国の縄文人骨の遺伝子を詳細に分析すると、縄文人が共通の単一民族の基層を持っていたのではなく、北方系から南方系まで、すでに雑多な民族の混合型であったことがわかってきています。
教科書や一般の概説書では、「二重構造説」というものが解説されます。この説では、南方からやって来た縄文時代の人々(前述の顔の濃い人々)を「原日本人」と規定し、弥生時代に北方系の人々(前述の顔の薄い人々)が朝鮮半島から日本に大量にやって来て、南方系の「原日本人」と混血をして、渡来系弥生人が誕生したとされます。
一方、渡来人は沖縄や北海道(アイヌ民族領域とされる)へはほとんど入らなかったため、これらの地域では、南方系の先住日本人の血統が保たれます。このように、日本人には「原日本人」と弥生人の2つの系列があるとされることから、「二重構造説」と呼ばれるのです。この説は1990年代に定説となっていきます。
宇山卓栄 著
「原日本人」の血統を残す沖縄と北海道の人々、つまり、琉球人とアイヌ民族は遺伝子上の近似性があるとされ、これが「二重構造説」の大きな論拠とされてきました。2012年の国立遺伝学研究所や東京大学の研究でも、両者は近似性があるという結果が出ています。
しかし、よくよくその調査の内容を見ると、遺伝子を提供した者がアイヌ民族である保証などはなく、遺伝子サンプル自体に問題があったといわざるを得ません。サンプルの対象となったのは「北海道日高地方の平取町に居住していたアイヌ系の人々から提供を受けた血液から抽出したDNAサンプル」といった説明がなされ、提供者の平取町の居住者がアイヌ民族であるということを前提にしていますが、彼らがアイヌ民族であるという証拠があるのかは不明です。普通の日本人の遺伝子を拾っている可能性が高いでしょう(アイヌについては後述)。