「企画ができない」と考えてしまう人は、そもそも企画を特別視し過ぎているような気がします。企画とは、新事業開発やコンテンツ制作のためだけにするものではありません。企画はもっと日常的で、どこでも誰でもしています。何か「決めた」ことに対して、誰かのリアクションが生まれた時点で、それは「企画」と呼べるのです。

 たとえば、営業企画部員のショウコさんが、いつも一緒にランチをする同じ部のコウスケ先輩に「今日はいつもの中華、『尚ちゃん飯店』じゃなくて、ちょっと足を延ばして新しくできたインドカレー屋さんに行きませんか」と提案したとします。

 ラーメン好きのコウスケ先輩でしたが「お、たまにはいいね」とリアクションしたとします。これはショウコさんの立派な企画といえます。こう考えると今日のランチも、明日の飲み会も、来月の旅行も、あらゆるものが企画になり得ます。

 たとえば丸1日、休日があったとします。その日を充実させるためにはまず、「最近ラーメンとかカレーとか炭水化物だらけだったから、明日は久々にジムに行こう」とか「料理好きインスタグラマーのマサヨさんが薦めてたカフェでお茶して、キラキラインスタグラマーモモコさんがステマっぽく薦めてたネイル店に行こう」など、何をして過ごすか決めますよね。

 企画とは「決めること」ですから、これも立派な企画です。でも、休みの日は疲れているから何もしたくないですよね。「決めること」とは「何かすること」ではありません。「明日は何もせずダラダラする日」と決めてしまえば、企画になります。

「何も決めずにダラダラして気がつけば夕方」という1日と、「今日はおもいっきり1日ダラダラするぞ」と決めてダラダラした日を比較すると、後者の方が自己肯定感もありそうですよね。

 もし、何も決めずに1日を過ごしてしまうと、休日の目的が曖昧になり、「最近運動不足だったしジムくらい行っておけばよかった」とか「ネイルが剥げていたし近所のサロンでも行っておけばよかった」など消化不良な気分になってしまうでしょう。

 つまり、企画することは、充実した日常を過ごすためのライフハックでもあるのです。

 ランチや旅行が企画になるなら、職業や生き方の選択もまた、企画だといえます。「会社帰りに居酒屋で上司の愚痴を言う」ということは会社員の人なら誰にでもありますよね。

 コロナ禍で飲み会が自粛される中でも、Twitterなどは会社や上司の愚痴で溢れかえっています。組織で働く以上、ある程度の理不尽は付き物ですが、愚痴を言っている時はどのような気持ちになっているでしょうか。

 何となく周りに合わせて就活をして、何となく内定が出た会社で、特にやりたいわけでもない仕事をしているという人は、「こんなはずじゃなかったのに」とか「もっと違う選択肢もあるんじゃないか」とモヤモヤし続け、愚痴を言ってもどこかスッキリしないと思います。

「何となく仕事をしている」という人は一度、仕事についてのスタンスを「決めて」みてください。

「めんどくさい上司を我慢しながらでも、自分はサラリーマンとして生きていくんだ」と決めてしまえば、同じように愚痴をいう瞬間も「何かサラリーマンっぽいぞ!」と少しだけ楽しくなると思います。

 私は会社員時代、ほぼ毎日お酒を飲みながら愚痴っていましたが、そんな自分が滑稽に感じられてきました。そこで「上司の悪口は酒の肴」だから「旨い肴を集めるために嫌な気持ちになろう」と決めました。

 それ以来「なんてサラリーマンっぽいんだ」と自分の愚痴モードを楽しんでいました。これに付き合わされていた後輩や仕事仲間はたまったもんじゃなかったと思います。ごめんなさい。

書影『企画 「いい企画」なんて存在しない』『企画 「いい企画」なんて存在しない』(クロスメディア・パブリッシング)
高瀬敦也 著

 ともかく、自分で「決めた」ことに関してはストレスを感じ難くなります。これは自分で責任が持てるようになるからです。何となく受け流されて降り掛かった理不尽にはムカつくし我慢できませんが、自分にも責任があると能動的に捉えれば気力が湧いてくるような気がしませんか。

 心理学の研究では、人間は自分自身や周囲をコントロールできているかどうかという「自己コントロール感」が強いほどストレス耐性や幸福度が高まると言われています。つまり、たとえ同じ状況でも「自分で決めたかどうか」「企画したかどうか」によって、幸福度は大きく変わるということです。

 企画とは人生そのものです。無限の可能性をそのままにしておけば何も実現しないまま時間が過ぎていきますが、ひとつずつ決めて可能性を断ち切っていくことで、豊かな人生を送ることができるのです。