ある対比構造に
「司馬遼太郎の矜持」を感じた

 まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。
 その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑は松山。(中略)
 この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、ともかくわれわれは三人の人物のあとを追わねばならない。そのうちのひとりは、俳人になった。俳句、短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れてその中興の祖になった正岡子規である。

 他の二人の主人公は秋山兄弟という軍人だ。正岡子規は最初の二巻にしか登場せずに早逝する。あとの記述は主に、秋山兄弟の戦場での活躍に充てられる。しかし歴史に名を残したのは、最も弱い存在の子規ではなかったか。この対比に、私は作家司馬遼太郎の矜持を見る。

 あるいは、薄氷の勝利であった日露戦争の実態を政府が国民に知らせなかったために、日本人は自国の国力を過信し、やがて、あの無謀な戦争に突入していった。その契機として、司馬さんは日露戦争を捉えていた。これは、今の日本に対しても十分に批評性を持つ事柄だろう。

 国民作家司馬遼太郎は、『竜馬がゆく』でその地位を確立し、本作の他、多数の長編歴史小説を書いた。その膨大な創作の原点は、学徒出陣で配属された戦車隊での経験にある。

 アメリカ軍が本土上陸してくる際に「敵が上陸してきた場合、出撃するわれわれの行く先には、東京から避難してくる多くの日本国民が道にあふれていると思われるが、どうしたらいいのか」と聞いた。それに対して参謀が「轢っ殺してゆけ」と答えた。それを聞いた若き司馬遼太郎は、日本は負けると悟った。

 後年、司馬は、なぜ日本があのような無謀な戦争に突入していったのかを考え、そこに至る原点として『坂の上の雲』を書いた。

 さて、二〇三高地に登ったあと、私は午後いっぱい大学で講義をして、さらに本場の中華の夕食を先生方と楽しんだ。翌日は教員は授業があるので、学生たちが空港まで見送ってくれた。三年生だと言うが、皆流暢な日本語を話し、これから日本の留学先を決めるからか、たくさんの質問を受けた。ある女子学生は「寺山修司に興味があるので青森の大学を考えています」と話していた。

 平和はいい。この平和を手放してはならない。

書影『名著入門 日本近代文学50選』(朝日新書)『名著入門 日本近代文学50選』(朝日新書)
平田オリザ 著