「地味な努力」を重ねた選手たちが
復活した応援で躍動
私がこれを読んだのは大学生のとき。アメリカンフットボールをやっていて、練習の激しさに何度も部をやめようとした。しかしこの文章に励まされ、なんとかやり遂げた。そのことが「奇蹟の投手」のおかげでよみがえった。
だが当時を振り返り、限界を超えるような練習を重ねたか、と自問するとどうか。もうあの頃には戻れない。あのときあの瞬間に、やるしかなかったのである。
ちなみに、アメフトに背を向けようとしたのは野球をめぐる論考にも関係がある。学生時代に手に取った『野球害毒論』(明治44年、朝日新聞に連載された野球批判)だ。その中に「手の甲へ強い球を受けるため、その振動が脳に伝わって脳の作用を遅鈍にさせる」なる文言があった。
噴飯ものの言いがかりではあるものの、「手の振動が脳に悪いのなら、いつも頭をぶつけあってる俺たちって……」と仲間と顔を見合わせたものだ。青年を鼓舞する文章もあれば惑わせるものもある。文章もいろいろだ。
さあ、開幕だ。
神宮の舞台に立つ選手たちは、例外なく「地味な努力」を積み重ねている。過酷な研鑽を積み、レギュラーを勝ち取ってきた者も多くいるに違いない。
そして、この春から応援の形態が「コロナ以前」に戻る。応援エリアへの観客の入場がかなう。各大学の応援もまさに「おなじみの姿に戻る」のだ。
長いトンネルをようやく抜け、グラウンドも応援席も躍動する。観客の意気は鼓舞され、士気は上がる。(敬称略)