「知らない」からこそ
「知りたい」と願う

 そんなソクラテスは、例の反則技で相対主義の連中をコテンパンに打ちのめしたあとで、街の人々にこう問いかけた。

「ホントウに正しいこと、ホントウの善とは何か?偉い政治家たちは、それをさも知っているかのように雄弁に語っていたが、実のところ何もわかっていなかった。もちろん、私も全然わかっていない。じゃあ、そもそも、ホントウの善っていったいなんだろう?」

 ここで重要なのは、ソクラテスはいわゆる偉い知識人たちのように知ったかぶりをして「これこれがホントウの善だ」などと、自説を押し付けがましく語ったりはしなかったことだ。それどころか、彼は「私は真理について何も知りません」と自らの無知をさらけ出し、「だから、一緒にそれを考えようよ」と道行く人々に話しかけたのである。ソクラテスが自分の無知を告白したという話は、今では無知の知という言葉で知られており、学校の教科書にも出てくる有名なエピソードである。よくこの言葉を「ソクラテスは、自分自身の無知を知っているから、無知を自覚していない知識人たちよりも賢い」という解釈で覚えてしまう人が多いが、決してこの言葉を「知らないということを知ってる謙虚な人は偉い」といった、ちょっと気のきいたレトリックや教訓として捉えるべきではない。「無知の知」という言葉のホントウの意味は、ソクラテスの行動原理を考えれば明らかである。

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 つまるところ、彼は、ただとにかく「真理」が知りたかった。そして、それを知ろうともしない世界に対して反逆したかった。そんな彼が、なぜ偉い知識人たちの無知を暴き出そうとしたのかと言えば、それは彼が無知の自覚こそが真理への情熱を呼び起こすものだと考えていたからである。

 当たり前の話だが、「知っている」と思っていたら「知りたい」と思うわけがない。「知らない」と思うからこそ「知りたい」と願うのである。

「だから、まず自分が何も知らないと認めるところから始めよう!」

 これがソクラテスの「無知の知」の真の意図である。つまり、彼は、なにも「無知を自覚している自分は偉いぞ」と謙虚を誇りたかったわけではない。そうではなく、彼は、無知を自覚してこそ「真理を知りたいと願う熱い気持ち」が胸の内にわきおこってくるのだということをみんなに伝えたかったのだ。