「藤兵衞さんのことを企業舎弟のようにいう人がいますが、それは違います。親分はカタギとして扱っていたし、大事にしてました。名前はいえませんが、そんな人は他にも何人かいた。藤兵衞さんには、『お前、頑張ってやれよ。何か困ったことがあったら、わしが何とかしたるから』というようなことはいうてますわ。親分はそんな人です」

 こう語るのは、渡辺が2代目山健組組長時代から側近を務めた山健組系今倉組2代目の原三郎である。山一抗争で3年半服役して戻ったのが1989年4月。直後、渡辺は5代目を襲名して神戸・灘の山口組本家に住むことになる。

 それまで原は、宇治川の渡辺邸(2代目山健組本家)の責任者を務めていたが、余人をもって代え難いということで、3代目山健組を継承した桑田兼吉(かねよし)から「原よ、すまんが親分について灘に行ってくれ」と命じられた。肩書は本家責任者である。

 渡辺は携帯電話を持たない。従って、本家には親分の世話をする「部屋住み」と呼ばれる若い衆が何人もいるが、重要な電話はすべて原が取り、渡辺につなぐ。まさに秘書であり側近中の側近だった。

 親分が、「ざぶとん(組長の権威)を護ることに精力を尽くした」ことを何より知っており、「カタギを取り込んで、ものごとをするようなことはせんですよ」(原)という。

「親分の時代は、『山口組組長の威光』がどこでも通る時代です。親分がクビを縦に振るだけで何億というカネが動くこともある。でも、それに簡単に手を出す人じゃない。ゼネコン内の揉め事を収めたときには『ゼネコンが、何十億とか持って来る』という話がありましたが、親分は『いらん』いうて。

 でも、組のもんや企業舎弟のときは違いますよ。『おまえ、組の看板で稼いだんなら、置いていかんかい!』となる。そこは親分なりのケジメです」

 渡辺の留守中、上田は何度か本家を訪れ、原に現金を預けている。しかし渡辺はそれを受け取らなかったという。

「私の記憶では2回ありますね。何かのことでお世話したんでしょう。中は見ていないんですが、数千万円でしょうか。『親分、上田さんが置いていかはった』というと、『返しとけ』と。上田さんに言うと困った顔をしはって。だから、『親分は刀剣や画に興味があるから、それにしたらどないです』と言うと、立派な刀や掛け軸の美人画を持ってきはった。2人の本当の仲は私らにはわかりませんが、招かれて京都にはよく行ってたし、気がおうたんでしょうね」