誰もが「マンガだらけ」を略したものだと想像するものの、実際のところは「おまんだらけだと不都合が生じる」と考えた末のネーミングだったのだ。

 80年4月――。ここから、まんだらけの躍進が始まるのである。

「汚い若造が入ってきたわけですから」
表面化した他店との軋轢と摩擦

 誕生時には高級ブティックが軒を連ねる一大ショッピングセンターだった。

 しかし、それから十数年の時を経て、中野ブロードウェイは変質を余儀なくされていた。各地にショッピングセンター、ショッピングモールが誕生して、ブロードウェイの優位性は失われていた。

 泉麻人の『東京23区物語』(新潮文庫)の文章にあるように、「みなコンセプトが甘い」ゆえに、時代に取り残されている感があった。一括して管理する存在がいないからこそ、金さえ準備すれば誰でも、どんな店でも出店は可能だった。

 そして、「みなコンセプトが甘い」からこそ、さらに、誰も管理する者がいない「野放図の館」だからこそ、調布市のはずれでマンガ専門の古書店を経営していた30歳の若者にもチャンスが訪れたのである。

 オープン初日の売り上げはおよそ5万円だった。ほとんど宣伝らしい宣伝もしていないのにそれだけの売り上げがあるとは想像もしていなかった。

「当初から勝算はありました。調布でやっていたときも、たまに全国からマニアがやってきて数万円の本を買っていくんです。だから、“需要はあるんだから、場所さえよければ何とかなる”とは思っていました。でも、想像以上に好調でしたね」

 オープン早々、手応えをつかんでいた。しかし、しばらくすると思わぬ「障害」が生まれてきた。中野ブロードウェイ内の他店との軋轢や摩擦である。当時の心境について綴った古川さんの自著『まんだらけ風雲録』(太田出版)から引用したい。

 当時私の意識には、発展・拡大・進化しかなく、調和や安定という心の広さは少なかった。

 しかしこの考え方は、絶頂期をとっくに過ぎたブロードウェイ商店街にとっては、大事なカンフル剤になる筈だったが、過去の栄華を忘れられず、守りの姿勢、客を忘れた商売に慣れてしまった店主やオーナーには、ただうるさいだけの存在に見えるようだった。(原文ママ)

 入居して最初の夏がやってくる。