浮浪者ひしめく上野駅地下に記者も1週間生活迷子の「金ちゃん」が表紙を飾った1923年9月30日号

 今から101年前、1922(大正11)年に創刊された週刊朝日。歴史に残る大事件はもちろんのこと、市井の人たちの声や生き方についてもリアルに報じてきた。本記事では、週刊朝日に残された「庶民の歴史」を振り返ってみたい。

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 本誌創刊翌年の1923年9月1日、関東大震災が首都圏を壊滅させ、多くの命を奪った。死者・行方不明者が10万人を超えた惨事からしばらく経過した9月30日号の表紙に、一人の少年の写真が<迷子の「金ちゃん」>の題字とともに載った。

<東京府立一中の罹災者収容所ではこの子を金ちゃんと呼んでいる。ことし四つで本名は三郎?というらしいがどこの誰の子だか今に判らない。頑是ない金ちゃんは毎日毎日「おっぱいおくれおいもおくれ」を繰り返している>

 家屋の倒壊や火災で多くの人が避難所へ逃れ、親子が離れ離れになる例も後を絶たなかったのだ。

 幸い、「金ちゃん」の身元はこの表紙をきっかけに判明した。10月28日号に顛末が記されている。

 少年の本名は菅谷三郎。父親は日本橋で宝石商の支配人をしており、少年は6人きょうだい(兄2人、姉2人、妹1人)。震災時、姉2人は京都で暮らしていて無事だったが、両親と兄、妹は皆、東京市本所区横網町(現在の東京都墨田区)の自宅で犠牲となった。宝石商の店主が一家の葬儀を挙げたが、三郎君の遺体だけ見つからなかった。

 そんな中、京都の第二高等女学校へ通っていた次女の珠江さんが作文の授業を受けていると、偶然、週刊朝日の三郎君の表紙について感想を書くという課題が出された。

<珠江さんが何気なくこの表紙を見ますと「迷子の金ちゃん」の顔が死んだはずの三郎さんに生き写しではありませんか、いや生き写しどころではないその本人なのですから珠江さんを驚かしたのに無理はありません>

 姉らにも表紙を見てもらい間違いないと確信し、警視庁に連絡。三郎君は身元を引き受けていた医師の家から宝石商の店主の家に引き取られ、姉との再会を果たした。記事はこう結ばれている。